KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2023年5月号
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札幌に行かされるまでの休みの間、『ランボー 怒りの脱出』(85年)を観た。何も考えたくない時、あのシルベスター・スタローンの疲れ気味の顔は気休めになりそうだった。ベトナム戦争に現地で囚われたままの米兵の捕虜収容所に侵入し、兵士たちを救い出す派手なアクション活劇なのに、ランボーは生還すると判っている話なので途中で眠気がさし、スタローンには悪いが退場してしまった。実はこの映画は後にテレビで見る度、いつも途中で眠ってしまう、ボクには因果な作品なのだ。因みに、一作目の『ランボー』(82年)と、シリーズ最後の『ランボー ラスト・ブラッド』(20年)はベトナム帰還兵の心の傷がしっかりテーマになっていて、単なる娯楽ものとは重みが違うのだが。 『二代目はクリスチャン』は予定通り、9月に公開されてヒットしていた。何度観ようと飽きないで観られるのが本物の映画だとは思うが、作った本人はさすがに映画館に行く気はしなかった。いくら若者客が詰めかけ、ギャグ台詞に笑い、ラストの殴り込みシーンに昂奮してカタルシスを感じてくれようと、演出の不出来な場面は恥ずかしくて見たくなかった。奈良に帰郷した時、街に『キリング・フィールド』という凄まじいカンボジア内戦を取材して、ピューリッツァー賞を貰ったアメリカ人記者の体験記を基にした映画が上映されていた。現地の記者を演じたカンボジア人は本当にポルポト派の大虐殺から逃れても強制労働させられた経験がある素人さんで演技が真に迫っていて、娯楽とは真逆の画像に圧倒されっぱなしだった。こんな凄い史実の映画をボクは撮れるんだろうか。そんな焦燥に駆られながら観ていたように思う。説得力があって眼に焼き付く映像はどこからのアングルでどんなサイズで撮ってるのか。スクリーンを睨みながら、メモを取ったことも思い出す。次作の準備でまた京都に戻った時に観たブライアン・デ・パルマ監督の『ボディ・ダブル』(85年)の印象感が雑記帳に残っている。「メラニー・グリフィスは色っぽい。色気は大事。覗きをする主人公の顏にカメラが寄り過ぎだが気分が出てる。夜空の星は噓っぽい。ヒッチコックの真似だろ」とある。『パリ、テキサス』(85年)は家族から逃げた中年男が自分の居場所を探して放浪する。「テキサスの荒野にライ・クーダーの孤独なギター曲が画面を助けている」と。次作の『犬死にせしもの』(86年)で配役した佐藤浩市と一緒に観たC・イーストウッドの『ペイルライダー』は「ただ寒々しいだけ」とあった。随分、まじめに映画研究していたんだなと思う。今月の映画『ランボー』(1982年)『キリング・フィールド』(1985年)『ボディ・ダブル』(1985年)『パリ、テキサス』(1985年)47

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