は学歴の記入欄があり、「何と書くか」と聞いた際、東光はこう答えた。《「東京帝国大学としときいな」》「そんなことはできない」と言うと…。《たしかにオレは帝大に入学も卒業もしとらんが、川端たちのクラスで本物の帝大生徒以上に勉強したものさ…》旧制中学を二回も追われ、十代後半から人とは違う破天荒な人生を歩んだ東光はその後、作家として復活。直木賞を受賞し、中退した母校の関学にも度々、呼ばれるようになり、後輩の学生たちの前で講演会を行っている。退学で「しょげる」どころか、独学で30年以上かけて名誉回復するのだ。彼の思想や哲学、生きざまが、いかに時代の先を行く早熟過ぎる人生だったかを、後に多くの日本人が知ることになる。=続く。(戸津井康之)相談者は高校3年生の男子。相談の内容は「真面目な親友が、女性との交際を学校に知られ、退学処分を受けた。卒業後は結婚し、二人で店を経営して暮らす予定だったのに。どうしたらいいでしょうか…」という悩みだ。この相談に東光は舌鋒鋭くこう答えている。《オレも中学二年の時、異性との不純交際とか何とかいう理由で退学させられたけど、全然しょげるどころか、もうこれから学校生活というバカなものはやらないですむっていうんで、オレは万々歳だったもんだ》と。さらに東光の〝毒舌〟の説教は続く。《そんなことでしょげるとか、放り出されたから一生が滅茶苦茶になるなんて、そんな奴は放り出されんでも初めからダメな野郎でね。同情するに値せんわい…》と叱りつける。口は悪いが、どんなピンチも自分の力で切り抜けてきた東光らしい愛ある叱咤激励の言葉だ。実際、東光は退学処分を受けた後、1915年、東京の叔父の家に寄宿し、一時期は画家を志す。二科展で落選し、絵筆を折るが、このとき佐藤春夫や谷崎潤一郎ら後の文豪たちと知り合い、谷崎の〝無給秘書〟を務め、後のノーベル文学賞作家、川端康成と親友となり、旧制第一高等学校(現在の東京大学教養学部、千葉大医学部、薬学部の前身)に通い始める。一高では芥川龍之介らとも仲良くなるが、実は東光は一高の学生ではなかった。だが、東光は芥川らに勧められた中国古典の講義などを熱心に受講する生徒で、教授陣にも可愛がられていたという。東光はこの一高時代の受講活動を「盗講」と呼んでいた。「毒舌 身の上相談」で解説を執筆する樋口進氏がこんなエピソードを明かしている。東光にパスポートの申請を頼まれたとき。当時の申請書類に119
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