KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2023年5月号
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訳ではなく、ワーケーション感覚だったようです。が、最初の夜に井原西鶴に関する原稿を1本書いただけで、あとはぼけーっと過ごすだけ。その後神戸へ出て牛肉をつつきながら、このまま東京へ帰るかそれとも西に行くか思案し、結局鹿児島まで行ってしまった…。「山人」こと児童文学家の高橋太華とのこの珍道中は、紀行集『枕ちんとうさんすい頭山水』の一節、『まき筆日記』にしたためられております。「まき筆」とは、まさに有馬人形筆のことです。そこには有馬でのことが詳しく描写してあるので、ちょっとご紹介しましょう。汽車で住吉駅に降り、そこから徒歩での六甲越えに怯んで山駕籠で。その道中、摩耶六甲の山々ははげ山で小さな松がちらほら生えていただけだそうで、現在とは大違いの様子ですね。駕籠かきが連れてきたのは下の坊というお宿。これは下大坊のようで、1900年頃には廃藤原定家しかり、近松門左衛門もそう、有馬温泉は古来より文人逗留の場として知られ、明治時代も文学史に名を刻む諸先生が多く来湯しましたが、その代表格が幸田露伴でございます。露伴は尾崎紅葉と並び称せられ、明治20年代の「紅露時代」を築き上げた小説家であることはご存じでしょうが、実はこの2人、高校の同級生というから驚きです。レニー・クラヴィッツとガンズのスラッシュみたいですね。露伴はとにかく知識が広汎で、小説はもちろん、評伝や随筆、俳句の注釈など自由自在。ちなみに次女は幸田文で、その娘が青木玉さん、その娘が青木奈緒さんと、文筆家の系譜の祖でもあります。そんな露伴の有馬訪問は1890年のこと。京都からやって来て1週間ほど滞在しました。文壇デビュー間もない頃で、大先生のお篭もりという業しています。露伴一行が1週間の逗留を頼むとアヤシイ奴ら!と思われたようで、すぐには上げてもらえず…。当時は外湯で、洋風の浴場だと思われます。浴室は狭く騒がしく、山人は熱くもない湯に汗がふき出るまで浸かったものの、露伴は「美からぬ女」に肌を触られたことが怖ろしかったようで、すぐ退散したとか。さて、有馬温泉の〝効能〟があったのか、その後露伴は代表作『五重塔』など数々の名作を世に送り、作家としての地位を確立しますが、キャリアの黄金期に10年ほど住んだ、蝸かぎゅうあん牛庵は有馬温泉史略でご紹介した向島秋葉摂州有馬温泉の近所でしたので、たびたび有馬での日々を思い出したことでしょう。その蝸牛庵の建物は明治村に移築され、現存しています。そして露伴が…それは次回に。有馬温泉歴史人物帖〜其の弐〜幸田露伴 1867~1947年 107

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