KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2023年4月号
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80年代後半が舞台で、相米慎二監督の『ションベン・ライダー』(83)を想起する部分もありましたが、相米慎二監督に師事されたきっかけは? 日本映画学校卒業時に、恩師のプロデューサー、佐々木史朗さんから今後のことを聞かれ、大森一樹監督の大ファンだったので現場で助監督として付きたいことを明かすと、その場で電話をしてくれたんです。あいにく新作クランクインの直前だったので断念したところ、1週間後に佐々木さんから電話があり、「相米監督は好きか?」と。薬師丸ひろ子さんが大好きだったので『セーラー服と機関銃』(81)や『台風クラブ』(85)などの作品はよく観ていました。薬師丸さんはとても魅力的に映っていましたが、当時は観終わった後、頭の中でハテナが渦巻き、正直そこまで相米さんのことを好きという感じではなかったのです(笑)。意外なご縁だったのですね。その後、オフィス・シロウズで相米さんに会いましたが、「青年、どこから来たんだ?」と始まり、そこからご飯を食べに行っても、とにかく何も喋らない。後日、相米さんのマネージャーさんから連絡をいただき、具体的な予定はないけど、若い人を横において色々企画を考えたいとのことで、給料をいただきながら相米さんに付かせてもらうことになりました。22歳の頃に丸一年ぐらい丁稚のようなことをし、そこからも現場に呼んでいただいたり、脚本を見ていただいたりする関係は続きました。相米さんが総監督を務めた短編オムニバス『かわいいひと』(98)では助監督として参加しましたが、『あ、春』(98)で声をかけてもらったときはこの業界を離れ、できなかった。本作の元になる脚本を相米さんに読んでもらったのも、その頃です。脚本を書いたきっかけは?90年代後半、少年犯罪が世間を賑わし、テレビではコメンテーターがその現象について知ったような顔で話しているのを聞きながら違和感を覚え、自分の思う子ども像を描きたくなりました。相米さんからは「(脚本を)書いたら見せろ」と常々言われていたので、見せないのは逃げになると思い、都度見ていただいていました。この脚本は後日、マネージャーさんから「相米が良いって言ってるから預けてみない?」と電話をいただき、すごく嬉しかったですね。僕もまだ若かったので、「相米さんが映画にしてくれるかも」という淡い期待を抱きました。本当は大森一樹監督のファンだった相米監督に「面白い」と言われた脚本29

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