KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2023年4月号
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自殺です。自殺は、神様のくれた答案用紙を破り捨てるようなもの。きちんと卒業せずに、人生を中途退学するのと同じです。だから私は、自殺する人がいちばん嫌い。答案も書かずに人間を廃業するなんて、とんでもなく卑怯なことです》淀川の弟は23歳で自殺した。弟を愛するが故に彼は「どんなに苦しくても自殺はいけない」と訴え、89歳の生涯を閉じた。淀川が亡くなる2か月前。親友の黒澤明監督が亡くなった。密葬の場で淀川はこう別れを告げた。「おい黒さん、すぐに後からついていくよ」。この言葉がメディアで報道された後、淀川は知人にこう吐露したという。「しまった。えらい余計なことを言ってしまった。いかないとまずいなあ」まるで映画のワンシーンのようである。彼は死ぬ間際まで人を和ませる愛嬌を忘れなかった。=終わり。次は今東光。(戸津井康之)この言葉を受け、評伝「映画少年・淀川長治」(岩波ジュニア新書)を執筆した荒井魏氏はこう綴っている。《実際、長治は〝生きた映画の図書館〟のような存在だった》と。厳格さと優しさ彼は〝映画の求道者〟のような生き方をしていただけに厳格な一面も持っていた。「自分に厳しかったけど、人にも厳しかったなあ」。私の新聞記者時代の先輩で淀川の連載を担当していた映画担当記者からよく淀川の話を聞かせてもらった。淀川の晩年、この先輩は病室に呼ばれ、彼がベッドの上で書いた原稿を受け取りに病院へ通ったという。彼の厳格さを象徴的に物語るこんなエピソードが「映画少年―」の中で明かされている。それは仙台市の講演会でのこと。帰り際、会場を出て車に乗った淀川に一人の少年が左手で握手を求めてきた。淀川は「礼儀知らずな子だ」と思い、「右手を出しなさい」と叱りつけた。だが、車が動き出し、淀川は気になり後ろを見ると、その少年に右手がないことが分かった。車から降りて少年の下へ駆け寄った淀川は両手で少年の左手を強く握りしめた。少年の目から涙が流れ落ちたという。「厳しい反面、人一倍優しい人だった」。淀川から怒られたこともあるという先輩記者は、懐かしそうにそして誇らしげに語った。淀川が自伝「生死半々」(幻冬舎文庫)で明かす自殺観にもその厳格さが表れている。《何歳で、どんな死に方をしようと、人は神様からもらった答案用紙を書き終えて、立派に人生を卒業したのです》と述べこう続ける。《ただし、一つだけ立派とはいえない死に方があります。それは119

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