います。で、628年に長く皇位の座にあった推古天皇が崩御すると、麻呂さんが擁立した田たむらのおうじ村皇子が即位し舒明天皇になりました。また、大化の改新を機に麻呂さんの娘小おたらしひめ足媛が嫁いだ軽かるのおうじ皇子が即位して孝徳天皇となり、麻呂さんは新政府の左大臣に就きます。その後は豪族の重臣として政治の中枢にあり、649年に亡くなると孝徳天皇や中大兄皇子が朱雀門へ出向いて哀悼し群衆も涙したというからよほどの人格者で実力者だったんでしょう。同僚の右大臣、蘇そがのくらやまだのいしかわまろ我倉山田石川麻呂が謀反を疑われ自害したのとは対照的です。一方、有馬温泉との関わりですが、当時の有馬とその周辺は阿倍氏と同族の久くくち々智氏の勢力下だったとか。また、有馬に近い西宮市名ならい来あたりはかつて千足村とよばれ、小足媛がそこで生まれたという説もあります。古今東西有馬温泉ゆかりの歴史上の人物を紹介する新連載。トップバッターはヌートバー、ではなく阿倍内麻呂でございます。このお方、阿あべのくらはしのまろ倍倉梯麻呂という別の名もあり、面倒なので以下「麻呂さん」としますね。さて、有馬温泉は文献上、600年前後に開湯したようですが、631年と638年に舒明天皇が、647年には孝徳天皇が行幸して有間温湯、つまり有馬の湯に浸かったことで有馬温泉が全国区になる訳で、そのキーマンと思われるのがこの麻呂さんなんですね。なぜそうなのか?まず、天皇との関係をみてみましょう。麻呂さんは生年不明ですが、593年頃に推古天皇に仕えた阿あべのとり倍鳥の息子として生誕したようです。阿倍氏は天皇の身のまわりのお世話や警護のリーダーだったようで、麻呂さんも624年に蘇我馬子から推古天皇へ繋ぎをとらされてですから、麻呂さんがまだあまり知られていなかった有馬温泉の存在を把握していたとしても不思議ではありません。なので、麻呂さんが「有馬ってところに温泉があるんやて。ひとっ風呂浴びに行かへん?」と誘って、両天皇とも麻呂さんと同世代でしたし、「いいね、行こや!」となったのではないでしょうか。もし逆に嫌でも、舒明天皇からしたら恩義があり、孝徳天皇からしたら義父ですのでノーとは言いにくい…。行くと決まれば役職上、行幸の段取りは麻呂さんが受け持っていただろうし、もしかしたら有馬へ同行していたかもですね。以上、麻呂さんこそ有馬温泉を一気に全国区へと押し上げた仕掛け人では?というお話でした。そんな麻呂さんは四天王寺の塔に4体の仏像を奉納しましたが、これが千年以上後に有馬と…それは次々回あたりに。有馬温泉歴史人物帖〜其の壱〜阿あべのうちのまろ倍内麻呂 593年頃?~649年 ※本稿に登場する人物名の読みには諸説あります109
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