と山田真吾とともにさまざまな“魔力”を駆使して、妖怪をやっつける話になる。悪魔くん自身も、貸本版と「千年王国」の松下一郎は不気味な垂れ目の三白眼なのに、マガジン版の山田真吾は愛らしい少年になっている。この変化は、鬼太郎にも見られ、マイナーの貸本から、メジャーの雑誌に移行するにあたり、出版社の意向(つまりは大衆迎合)に沿ったものだろう。同様の変更は、『悪魔くんノストラダムス大予言』でも引き継がれるが、アニメ化された「コミックボンボン」版の『悪魔くん』に至っては、“悪魔”はシルクハットと蝶ネクタイにマント姿の少年、「メフィスト二世」となって、不気味さのカケラもないキャラになり、往年の水木ファンを失望させた。ストーリーもお子様向けのものが多いが、そこはさすがに水木作品。よく読めばゾクゾクするような話もある。たとえば、「トン=フーチンの巻」では、死者が蘇って町にあふれ、教室で先生が児童に、「しばらく気もちわるいでしょうが」と言うと、ガイコツ児童が挙手をして、「先生!ガイコツを差別するようなことばはつつしんでください!」と抗議する。校長もガイコツになり替わっていて、「そうです。生者と死者を区別してはいけません」と諭す。これなどは、あらゆる差別を撤廃すべきという現代の世相を、行きすぎた形で先取りしたものとも思える。貸本版および『千年王国』で、私が特に感心したのは、次の一言である。「かしこいやつをバカにするとは……バカをかしこくするよりむずかしいかもしれないな」これは“悪魔くん”と呼ばれる息子の“異能”を恐れた父親から、息子をふつうの人間にしてほしいと頼まれた家庭教師の佐藤のセリフだ。悪魔くんは従順そうに「算数のほうからみてもらいます」などと言いながら、「神秘幻想数学」や「古代エジプトの数学書」を出してきて、佐藤を困惑させる。ふつうはバカを賢くしようとして苦労するが、実は賢すぎる者をふつうにするほうが至難の業ということだろう。ロシアや中国、北朝鮮の独裁者を見てもわかる。現代において長期の独裁政権を維持するためには、相当な賢、、さが必要なはずだ。もし彼らがふ、、、つうであれば、早々に失脚して、隣国を侵略したり、人権を無視したり、核兵器を開発したりはしないはずだ。賢すぎるから、ふつうの人間が到底容認できないことをする。つまりそれが“悪魔”ということだろう。「冴えてる一言」~水木しげるマンガの深淵をのぞくと「生きること」がラクになる~定価:1,980円(税込み)光文社 久坂部 羊さんの新刊43
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