KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2023年3月号
131/136

編集部を訪ねる。雑誌社の社主に自分が神戸の出身だと告げると、すぐに、「君は、淀川君だろう」と言い当て、淀川自身が驚いたという。淀川は新開地で観た映画について熱意ある評論を書いては「映画世界」へ毎号投書していた熱心な読者だった。だが、淀川の夢は絶たれる。実家に呼び戻され、神戸・生田筋に父が出資してオープンした西洋美術品店の店員として手伝うことになったのだ。遂に〝映画の申し子〟の運も尽きてしまうのか…。たとえ不良と呼ばれようが、大学を中途しようが、母親が映画館で産気づいて生んだ〝映画の申し子〟こんなことであきらめるはずはなかった。=続く。(戸津井康之)彼は綴り、少年時代、自宅近くのこれら新開地の映画館へ連日、通い続けていたという。新開地は彼が生まれる4年前、1905年から旧湊川を埋め立ててできた造成地で、一大繁華街として発展。当時、「東の浅草、西の新開地」と呼ばれていた。そこに、まるで彼の成長に合わせるようにしながら次々と映画館が建てられ、全盛期には約20館ほどにまで増えていたのだ。後に彼はこう語っている。「新開地は、僕の映画学校だった」と。映画漬けの青春時代淀川は旧制兵庫県立第三神戸中学校に進学するが、ますます映画熱は高まっていく。当時、「映画館へ行くような生徒は不良だ」と教師たちは生徒が来ていないか映画館へ監視に来ていたが、彼は「堂々と映画館通いを続けていた」と明かす。「映画には学校の勉強以上のものがある」と淀川は確信していたのだ。ある日の映画館の帰り道。監視そっちのけで映画に冒頭し、感動のあまり泣いたり笑ったりしていた教師をつかまえて、「先生、よかったでしょう」と淀川が声をかけると、「うん、よかったな」と素直に教師は答えたという。生徒の立場でありながら、悪びれずに教師にこう答えさせていた淀川はまさに〝映画の申し子〟足る人生を突き進む。神戸三中卒業後に上京し、日本大学へ入学。だが、足は大学へは向かわず、浅草や目黒の映画館へ通い続けていた。「映画は人間の鏡、人間の生きた教科書なんです。人間の美徳にしても、悪徳にしても、人間社会の問題にしても、自然に鏡となって映し出されてくる」彼の持論はさらに続く。「大学で四年勉強するなら、三年間映画を見た方がずっと勉強になると思った」と。そう思い立つと彼は大学を中退し、映画雑誌「映画世界」の131

元のページ  ../index.html#131

このブックを見る