KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2023年3月号
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今村 欣史書 ・ 六車明峰連載エッセイ/喫茶店の書斎から   大峰からの詩集このほど贈られた詩集『スケッチ』(橋田繁文著・編集工房ノア刊)だが、奥付を見て驚いた。「奈良県天川村洞川生れ」とある。著者の橋田さんに面識はないのだが、わたしは無性に懐かしい。「洞川」という地名が、である。「どろがわ」と読む。修験道のメッカ、大峰山の麓にある。くわしく言えば「山上ヶ岳」。役行者が開いたとされ、今も女人禁制のお山である。「西の覗き」という行場では、新客が崖からロープで吊るされて谷底を覗かされ、「親孝行するか!浮気はせんか」などと言われる場面が有名だ。このお山に登ることを「山上参り」と言い、洞川はその宿場町である。わたしは若き日、毎年訪れていた。「一心講」という行者講の役員をしていたのだ。何十人もの講員を連れての大峰登山。講が衰微するまで何十年も通ったのである。初めて登ったのは、小学四年生の時。父親に連れられてだった。十数人程度のグループで。宿に着いた夜、父親たちがラジオを聞きながら深刻そうに相談している様子を覚えている。1954年9月25日の夜だった。台風が西日本を襲っていたのだ。登山を決行するか中止にするか。その台風は九州をかすめ、四国に上陸し、中国地方を北上し日本海へ抜けた。登山は決行された。26日未明、漆黒の中を懐中電灯を手に出発した。雨はまだ降ってはいなかった。が、やがて降り出し、用意していた合羽を着て、なお頂上を目指した。標高1719メートル。父に励まされながら歩いた。やがて土砂降りになり、道が川になり、風はゴウゴウと吹き、雨が谷から天に舞い上がる。突風が来るたびに父はわたしを山肌へ押さえつけ、体をかぶせて守ってくれた。往復六里の道を文字通り命がけで歩いたのだった。道中にはいろんな行場があるのだが、一切行えず、その道中歩行が「行」そのものだった。難行苦行の末なんとか宿に帰り着くと、「よう帰ってこられた」と迎えられ、玄関に用意された盥で足を洗ってもらった。その湯の温かかったことを今も忘れない。遭難しなかったのが不思議だった。この台風は、日本海を北上し、北海道で青函連絡船「洞爺丸」を沈め、1000人を超える犠牲者を出した。後に「洞爺丸台風」と命名され、水上勉の「飢餓海峡」など、多くの文学作品にも登場している。詩集の著者、橋田繁文さんに詩集の感想とそ106

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