KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2023年2月号
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戦争文学を確立1945年12月。フィリピンの捕虜収容所から、ようやく日本へ帰ってきた大岡昇平は、神戸から親類宅へ疎開していた家族が暮らす明石市で身をおちつける。ここで彼は翌年から本格的に「俘虜記」の執筆を始める。神戸に本社のあった川崎重工も辞め、退路を断って作家に専念する道を選んだのだ。「何でもいいから書きなせえ。あんたの魂のことを書くんだよ…」高校時代にフランス語の家庭教師をしてもらって以来の恩師、小林秀雄が、戦地での話を詳しく語ろうとせず、何も書こうともしない大岡に対し、こう言って後押しした。「魂を書こう」。そう決意した大岡が、約5年を費やし、連作で13章まで書き綴った「俘虜記」は第一回「横光利一賞」を受賞する。大岡は40歳になっていた。戦争を生き抜いた者にしか書きようのない鬼気迫るこの戦争文学によって、彼は作家としての地位を確立する。さらにペンの勢いは増した。1952年、43歳で小説「酸素」の連載を始め、同年、小説「野火」で読売文学賞を受賞する。戦場を彷徨い、狂人となっていく孤独な兵士の葛藤を描いた「野火」は、その後、英、米、伊などでも翻訳され、「今世紀最大の文学のひとつ」と呼ばれるなど世界的評価を受ける。そして1959年、日本映画界の重鎮、市川崑監督により「野火」は映画化された。極限を生きる主人公の田村一等兵を演じるため、主演に抜擢された俳優、船越英二は約二週間の断食をして撮影に臨んだが、栄養失調で体調を崩して倒れ、撮影は長期間、ストップした。当時、人気絶頂の二枚目スターに、そこまでプレッシャーを与え、悲壮な覚悟をさせた。それが、大岡の〝魂の結晶〟ともいえる「野火」が秘める力だったのかもしれない。大岡昇平魂を書くのだ…恩師の言葉で取り戻した文学への情熱神戸偉人伝外伝 ~知られざる偉業~㉞後編118

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