KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2023年1月号
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そういう場所であるから、後醍醐天皇の頃まで高御位山の山頂で祭祀がおこなわれていたが、北朝が権力を得てからは表だった祭祀ができなくなり、伝承の世界に閉ざされてしまった。諸説があるが、九鬼家は前述の天児屋命から中臣鎌足・藤原不比等父子を経て藤原一族となり、その後熊野別当職を代々務め、やがて九鬼姓を名乗り、信長の時代には九鬼水軍として怖れられた。しかし、江戸幕府により本家は三田、分家は綾部と海から離れたところに移封され、そのまま近代を迎える。高御位神宮を創建したのは、綾部の九鬼家直系の九鬼隆治という人物だ。父は綾部藩最後の藩主、九鬼隆備(たかとも)。福沢諭吉の進言で三田藩主から実業家に転身して神戸で志摩三商会を起業した九鬼隆義の甥にあたる。加古川市と高砂市の境をなす標高304mの高御位山。その美しい山容から「播磨富士」ともよばれるこの峰には、並んで聳えていた牛山という山と喧嘩して投げ飛ばしたとか、おこぜを奉納すると願いが叶うとか、いろいろな伝説がある。その1つに、次のような逸話がある。人類誕生のはるか昔、いまから650万年ほど前のこと。隕石が金星から地球へ飛来し、天空で3つに割れて地上に墜ちた。その場所は、1つは京都の鞍馬山、1つは紀州の熊野大社、そしてもう1つがここ、高御位山の頂上だったという。この不思議な言い伝えは、江戸時代に代々綾部藩主を務めていた九鬼家に伝わる門外不出の文献、『九鬼(くき)文献』に載っていたそうだ。残念ながら文献は太平洋戦争の空襲で焼失しているが。高御位山の頂上には天の御柱が立っている。それはいまから約2500年前、第五代の孝昭天皇が、隕石が落ちた聖地ゆえにここを正月にお祀りしなさいと、九鬼家の先祖である天児屋命(あめのこやめのみこと)の子孫に命じたことが由来になっているとか。『九鬼文献』には「当山を高御位山と称するは世界天皇の始祖天御中主大神の岩築室の存するに因り此の称起こると伝へらる」とある(この記述から、高砂の「石の宝殿」との関係も深そうだ)。石が墜ちた山隕御位神宮の創建高89

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