KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2023年1月号
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いうだけで、僕はやだなぁと思うけれど、謎も毒もある作品を嫌悪して、そういう作品を避けようとする人も結構多い。どんな人間も善悪の要素を持っている。片方だけの人はいない。その両者がミックスした時、そこに謎が表われ、それが何か毒花のように見えるのかも知れない。毒のある花こそ美しいというのは美の側面を差しているように思う。本展の第1章は「仕組まれた謎」で、コラージュやデペイズマンの手法を用いた作品を中心に紹介している。「デペイズマン」という言葉は一般的には使用しないが、シュルレアリスムの一要素で、「本来の機能から逸脱して別の場所に位置転換するこ神戸で始まって 神戸で終る ㉞を思わせる不条理な場面設定、批評精神あふれるパロディなど、子どもの遊びのような無邪気さとシュルレアリスムの手法をあわせ持つ重層的な画面構成は横尾芸術の特徴といえるだろう」と論評してくれる。そして「作品に散りばめられたユーモアやウィット、その構成する謎と毒に注目した」らしい。このことは僕の性格をそのまま説明しており、「謎と毒」とは嬉しいことを言ってくれますね。謎と毒は僕の作品に限らず、芸術にとっては不可欠な要素ではないかと思う。謎も毒もない作品なんて、どこにその作品の魅力があるのだろうか。なんだか花鳥風月の作品みたいで、ただ装飾的にキレイだと人を食ったような「人食いザメと金髪美女―笑う横尾忠則展」が22回目の展覧会だった。キュレイションは平林恵。彼女に言わせると、僕の作品には様々な「笑い」の要素が盛り込まれているという。別に笑わそうとか、笑ってもらいたいために描いているわけではない。ただ真面目腐った絵だけは描きたくない。むしろ、人間の本質にはどこか不真面目なところがある。社会に顔を向けようとするから、自分のためというより社会のために真面目を装うのである。実につまらない生き方だ。それと平林は「緊張感ある画面への弛緩的な事物の導入や本来出会うことすらないモチーフ同士の組み合わせ、夢Tadanori Yokoo美術家横尾 忠則撮影:山田 ミユキ18

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