ある。どうして私が帰って来たことを知ったのであろうか…》「わが復員わが戦後」の中には、復員後、大岡が作家として再出発する決意も綴られている。ここでも神戸時代に働いていた「帝国酸素」が絡んでいるところが興味深い。復員直後、大岡は古巣、帝国酸素時代の元上司から連絡を受け、東京・田園調布の自宅へ招かれる。元上司に今後の身の振り方を聞かれた大岡は、こう答える。「もう帝国酸素へ戻る気はなかった」。だから、こう言った。《なんとかなるでしょう。僕も今度は命の瀬戸際を潜って来たんで、これからはつまり余生みたいなものですからね。少し好きなことをやってみようと思ってるんです…》大岡が口にした「好きなこと」とは文学だった。このとき37歳。大岡の文学者としての人生がついに幕を開けた瞬間だった。=続く。(戸津井康之)1943年には帝国酸素を退社し、神戸市に本社のある川崎重工に転職する。1955年に刊行された小説「酸素」は、大岡が神戸の「帝国酸素」で働いていた頃の記憶に基づき書かれた物語だ。小説「酸素」の中に登場する「甲山アパート」は、大岡が入社当時、下宿していた「甲南荘」がモデルで、谷崎潤一郎の「細雪」の中にも「松濤アパート」の名で登場している。阪急夙川駅の近くにあった甲南荘は、谷崎が原稿を執筆する際、利用していたというから、文学者たちに親しまれた歴史あるアパートだったようだ。37歳からの再出発しばらく神戸で家族と平穏に暮らしていた大岡だったが、第二次世界大戦末期、軍隊に召集され、激戦地のフィリピンへ出征する。戦場ではマラリアに苦しめられジャングルの山奥に退避している途中、米軍の捕虜となり、レイテ島収容所へ送られる。戦後、復員船に乗って日本へ帰還すると、彼は神戸へ直行し、家族を探すが、空襲を逃れるため、妻と子供たちは明石の親類宅へ身を寄せていた。大岡が復員後、30年以上経ってから発表した「わが復員わが戦後」(1978年)には、戦前、大岡が、神戸で、いったん「文学」と離れる道を選ばざるをえなかったこと。そして、その内面の葛藤が明かされている。《応召に先立つ六年間、私は神戸の月給取として、文学と離れて暮していた。私の「社会」も「家庭」も、そういう簡単な利害の中におかれていた。19年の夏東京の部隊から出征する時も、私は古い文学の友達には通知しなかった。一人の文学的落後者として、私は彼等に惜しんで貰う資格はないと卑下していた。復員後突然祝いの寄せ書を貰って、私はびっくりしたもので143
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