KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2023年1月号
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高まって温泉の枯渇が懸念されていた訳ですが、1941年に地元主体で温泉掘削会社を立ち上げ、翌年には早くも有明泉源から高温の金泉が。戦後も温泉街のあちこちをボーリング、宿も敷地内を掘り掘り、金泉だけにお湯のゴールドラッシュの様相を呈してきまして、その結果昭和20年代に天神・御所・極楽・妬うわなりのほか銀泉の泉源も掘り当て、自家泉源が涌いた旅館もあり、湧出量が増え宿では内湯が当たり前になっていきます。戦後はまさに有馬の飛躍の時期。1947年には合併で神戸市の一部となりますが、この時の神戸市長は前回登場した九鬼隆義の重臣、小寺泰次郎の息子の小寺謙吉というのも不思議なご縁だこと。1949年には有馬温泉観光協会が創立し、翌年には太閤秀吉を偲ぶ有馬大茶会がスタート、有馬検番もでき、有馬ます池もオープン。看板や街灯も整備され、その後瑞宝寺公園も開園します。昭和30年代になると大衆のレジャー地として賑わうように。1957年には温泉街の周囲が瀬戸内海国立公園に編入され、鼓ヶ滝や瑞宝寺公園がここに含まれるように。全国的なヘルスセンターブームに乗って、1962年には有馬ヘルスセンターがオープン、日帰りニーズを掴みます。パチンコ屋やヌード劇場もできたそうですが、品格ある有馬には似合わなかったのか、神戸電鉄で新開地に出れば事足りたのか、ほどなく廃業したようです。1964年の新幹線と名神高速、1970年の大阪万博を見据えて、昭和30年代からは大型の宿泊施設が続々と。1961年に芦有道路、1967年に六甲トンネル、1974年には中国道など交通も便利に。1970年には六甲有馬ロープウェーも開通します。昭和40年代後半から50年代は高度成長の風を帆に受けて、旅行会社のパック旅行でも人気になり、団体客満載のバスが続々、ゴージャス保養所も増え会員制リゾートもできて大賑わい。その後バブルでますます派手派手、宿の大広間では連日の大宴会でございました。一の湯・二の湯の時代から100年ちょい、校庭のいもを喰っていた時代から40年ほどで大変貌を遂げた昭和末期の有馬。1982年にゆけむり広場ができた際、大阪からここまで秀吉像を輿に乗せて運んだそうですが、太閤様は「ワシの知っている有馬やない!」と目を丸くしたでしょうな。「有馬大茶会」133133

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