KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2023年1月号
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語り調子でザッと読み流す、湯の街有馬のヒストリー。有馬温泉史略有馬温泉史略第十三席耐え難きを耐えつつ掘って湯も街もわき立った!昭和戦中~戦後今回は前々回ザッと流してしまった戦時中のお話からはじめましょう。さて、華やかなりし有馬のモダニズムの栄華は一閃で、すぐさま戦争の影に呑まれます。男子は戦地や工場へ、残るは女、子どもと老人ばかりで、ことあるごとに防空訓練。1942年から終戦まで尼崎の小学生が集団疎開。有馬小学校では校庭でかぼちゃやいもを栽培し、挺身作業で供出用の薪やどんぐりやヨモギを採ったり草履を編んだり。旅館の施設は海軍の保養所として提供を余儀なくされ、お寺の梵鐘は供出、焼夷弾こそ降らなかったものの空襲警報はしばしばで、心安まる時間もなかったことでしょう。1942年には三田と有馬温泉を結んでいた国鉄有馬線が不要不急路線として休止、そのレールは鉱石輸送のための国鉄篠山線の敷設に転用されました。ちなみに、その篠山線が廃線になって久しいいまでも、有馬線の生き証人たるレールは篠山の福住あたりでもろもろ再活用されております。1944年には軍需用として関西ペイントに町有林の松ヤニの提供を契約、中の坊には戦時産院が開設されます。その翌年、終戦前には土井船艇兵器が公会堂を購入し有馬小学校の校舎を借りて軍需生産の場とします。ただでさえこんな悲しき状況なのに、1943年の年明けには大火災まで起きてしまいます。旅館など全戸数の約1割が巻き込まれ、罹災者は200名とも300名とも。死傷者がなかったのが不幸中の幸いでしたね。でもね、こんな散々な目に遭いながらも、有馬の人たちは未来をしっかり見据えていたんですよ。前々回申し上げた通り、内湯のニーズが132

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