KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2022年11月号
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有馬のモダニズムは列車に乗ってやって来た?大正時代~昭和戦前語り調子でザッと読み流す、湯の街有馬のヒストリー。有馬温泉史略有馬温泉史略第十一席今年は鉄道開業150年でしたね。前回申し上げたように鉄道なる乗り物により有馬を訪ねる旅人は増えましたが、明治時代は列車で行けるのは住吉や生瀬まで。そこからは徒歩や人力車などで有馬へ至った訳ですが、住吉からの山道は幸田露伴に「此悪路をば徒歩にてなら喉の渇き涸るゝに悲しみ汗の沸き流るゝに恨みて…」と酷評され、生瀬からの人力車は夏目漱石に「車夫は梶棹へ綱を付けて、その綱の先をまた犬に付けて坂道を上る(中略)犬がひんひん苦しがりながら俥くるま引く…」のを嫌がって有馬をやめて和歌浦に向かったと書かれる有様ですから、有馬への路線を望む声が大きくなっていく道理です。それを最初に計画し敷設免許を得たのが箕面有馬電気軌道、現在の阪急の前身ですが、レールは宝塚で止まってしまい1913年に有馬延伸を断念。でも「役立たず!」と怒らないでおくんなまし。この会社は三田に発電所を設け有馬へ送電していたんですから。断念された路線の免許は有馬鐵道に譲渡され、すでに国有鉄道の福知山線で大阪方面と結ばれていた三田駅から有馬駅への路線を建設、1915年にめでたく開業します。この路線、法律上は軽便鉄道でありながら国有鉄道と同じレール幅だったので、大阪から有馬への直通列車が乗り入れるようになり、ダイレクトアクセスが実現!さらに1919年に国有化、国鉄有馬線となります。さて、大正初期といいますと第一次世界大戦による好況で貿易拠点の神戸が大発展、郊外電車開業にともなって大阪の富裕層たちもこぞって神戸や阪神間に私邸を構えるようになり、神戸方面からのアクセスの122

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