KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2022年11月号
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今村 欣史書 ・ 六車明峰連載エッセイ/喫茶店の書斎から   光るもの詩を書き始めてまだ間もないころ、わたしは神戸新聞の読者文芸欄、詩の部に毎月投稿していた。選者は、代表作『やちまた』で著名な足立巻一氏だった。『やちまた』は江戸時代の国学者、本居宣長の一子で、盲目の国語学者である本居春庭の評伝と、足立氏自らの数奇な人生を綴る力作。文部大臣芸術選奨受賞作である。評論家の呉智英氏はこう評している。《『やちまた』を私は「悪魔の名著」と呼んでいる。若い頃これを読んで魅了されると、人生を誤るからだ。私もこんな本に感動してしまって、堅実な人生を歩めなくなった。》その足立氏が、特選に取り上げてくださった拙詩に、こんな評を書いて下さっていた。《庄野潤三氏にこれと少し似た美しい短編小説のあるのを思い合わせた。》初心のころのもので恥ずかしいのだが、その詩。1981年の作である。   空缶国道のかたわらの草むらに/何か動くものがいる/よく見るとそれは 捨てられた空缶/それが 国道を走る車を 次々と映している/ひたすらに 映している/僕にはそれが 生き物としか思えない/空缶だと知れたあとも。僕が見る前から そこで/そんなことをし続けていたなんて/そして/僕が通り過ぎたあとも。この詩に少し似た庄野潤三氏の短編小説とは何なのだろうと、大いに気になった。しかしわたしは足立氏に尋ねることはできなかった。初心者のわたしが高名な作家さんに恐れ多いと思ったのだ。また、「自分で探して読んでみなさい」と宿題を与えられたような気もしたのだった。だが特別探すというようなことはしなかった。ただ、庄野作品に触れる度に気にしながらは読んでいたのだが、「これだ」と思う作品に出会うことはなかった。とはいっても、もう長年になるので庄野作品は結構読んでいる。でも見つからなかった。ところがこのほど、いつも利用する図書館のロビーにある「リサイクル図書」の棚で一冊の庄野本を目にし、戴いて帰った。もしかしたら、という淡い期待を持って。『丘の明り』(筑摩書房・昭和42年刊)という短編小説が11篇載っている本。時間がゆっくりと流れる庄野文学を楽しみながら読んでいった。すると最後の「丘の明り」とい106

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