KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2022年10月号
73/136

くは相変わらず一の湯二の湯が使われ湯ゆな女も活躍していましたが、やはり時代の波にあがなえず1881年、兵庫県により建て替えが計画され、それまでの敷地が狭いので御所坊を移転させて、1883年、その跡地に御雇外国人、ゲルーツ設計の2階建て洋館の新浴場が完成、一等湯、二等湯、三等湯と階級分けされ、2階は貴族などの接待に使われたという記録があります。ところがこのブランニューな洋風浴場は、由緒ある温泉地に似つかわしくなく人気がなかったとか、欠陥があったとかで短命に終わり、1891年、元の一の湯二の湯のような和風で平屋建ての浴場に建て替えられちゃった。でも構造は昔と異なって一等室2室、通常室2室となり、通常室は投宿先がどこであろうといつでも入れるようになります。つまり、それまでのように宿と時間が指定され、湯女に案内されてという方式は消え、男湯女湯に分けられたので混浴もNGになったみたい。湯女はしばらく一等室への案内をしていたようですが、やがてその役目を終え、宴席の接待は芸妓へ移行していったそうです。でも、この新浴場も1903年に改築されます。その理由は1899年の六甲山の鳴動。泉温が上がり湯量も増えたので、湧出口があったそれまでの浴槽を泉源として新たに設けた浴室に注ぎ、それでも湯が余るので貸切専用の高等温泉も新設されました。さらに、明治時代にはもう1つ浴場ができます。それは炭酸泉の浴場。1875年、それまで怖れられていた「毒水」を大阪司薬場の外国人技師が分析したところ炭酸泉であることが判明、一夜にして「霊水」と崇められるように。やがて明治20年頃にはこれを飲める休憩場ができ、そこには茶店やビリヤード台もあったそうです。炭酸泉の浴場はその下に建てられ、その後宿も設けられ新スポットとして人気に。さらに明治30年代には瓶詰め工場ができ炭酸水として輸出もされ、明治40年頃に三津繁松が炭酸せんべいを売り出し、新たな名物がデビューしたのでございます。西洋の知見や技術で、新しいポテンシャルが引き出された有馬の文明開化。大きな変化はあったけど江戸時代同様の賑わいをみせ、そしてまだまだ進化していきます。そのお話はまた次回、ドントミスイット!炭酸泉源7373

元のページ  ../index.html#73

このブックを見る