KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2022年10月号
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新ルートに新浴場に新名物有馬の文明開化明治時代語り調子でザッと読み流す、湯の街有馬のヒストリー。有馬温泉史略有馬温泉史略第十席前回申し上げた通り江戸時代に隆盛を誇っていた有馬ですが、その末期、京都で新撰組が跋ばっこ扈する頃は社会混乱の影響で少し客足が鈍り、「有馬獅子」なるちょっぴりメランコリックな小唄が流行っちゃったようで。で、ほどなく明治維新を迎える訳ですが、その影響はまず交通にみられます。有馬への道は太古より現在の宝塚市あたりのどこかで武庫川を渡るというルートでしたが、鎌倉時代、生瀬に浄橋寺が創建され橋が架けられまして、ま、橋が流され渡船になることもありましたが、それをきっかけに有馬へのメインルートである有馬街道の拠点として生瀬が発展していきます。しかし江戸時代、魚ととや屋道など六甲越えが開削され、幕府はこれを正式な道として認めなかったのですが利用する人が後を絶たず、生瀬の人たちは利権が奪われると六甲越えの通行禁止を大坂奉行所に訴えるなどしばしば紛争が起きていたんですね。それが明治元年の1868年、一転して六甲越えが認められ、さらに1874年に大阪~神戸に鉄道が開通し住吉駅ができると汽車の威力は絶大で、程なく山道も改修されて住吉から六甲山を横切って有馬へ向かうルートがメインになり生瀬大ピンチ!ですがやがて大逆転が。1898年に阪鶴鉄道、現在のJR福知山線が延び生瀬に有馬口駅が開業、この駅は現在の生瀬駅で、いまの神戸電鉄有馬口駅とは別物でございます。すると人々は再び生瀬経由へと流れ、逆に住吉経由は廃れちゃった。ちなみに、利用客の多さに目を付け有馬口駅で弁当を売り出し鮎寿司をヒットさせたのが、後に神戸へ移り変わり種駅弁を連発する淡路屋です。一方、温泉場の方は明治になってもしばら72

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