22年に復員。戦後の混乱期、東京で武蔵野美術学校に通いながら、仲間と配給の魚屋をやったり、輪タクの営業をやったりするが、どうにも食っていけず、傷痍軍人仲間と募金集めの旅に出る。しかし、それもうまく行かず、流れ流れてたどりついた神戸で仲間と別れ、たまたま兵庫区水木通りにあったボロアパートに転がり込む。するとそこの大家が、この家を20万円で買わないかと持ちかけてきた。今の貨幣価値でどれくらいかわからないが、それにしても安い。しかし、よく聞くと、借金が100万円あり、それを月賦で肩代わりしてくれるならという話だった。それでもアパートの大家になれば、家賃収入が得られる。そこで武良青年は父親に頭金を援助してもらって、このアパートを買い取り、地名から「水木荘」と名付けた。しかし、思うように家賃は入らず、たまたま下宿人に紙芝居作家がいたので、もともと絵が得意だった武良青年は、自分も紙芝居を描くことにする。そこで紹介されたのが、「阪神劇画社」という名前だけは立派な貸元で、社長兼紙芝居の営業も兼ねていたのが、鈴木勝丸という人物だった。鈴木氏は見た目は往年のジャン・ギャバンばりの強面で、口調はフーテンの寅さんのようにくっきりしていたらしい。その鈴木氏が、水木荘の大家でもある武良青年を、「水木さん」と呼んだ。「いや、武良です」と何度訂正しても、「そんなことはどうでもいいです、水木さん」と、頑として呼び名を変えなかった。それで仕方なく「水木しげる」を紙芝居作者のペンネームにしたのである。その後、テレビの普及で紙芝居業界は壊滅し、水木しげるは貸本漫画家になって戦記物や怪奇漫画を描くが、ここでも苦労し、出版社に「アンタの本は売れない」と言われたり、原稿料を踏み倒されたりして、文字通り「赤貧あらうがごとし」の生活が続く。そんな中、両親に勧められ、39才で見合いをし、その5日後に結婚という慌ただしい形で所帯を持つが、相変わらずの貧乏暮らしが続く。それでも水木しげるはあきらめず、神戸でたまたまつけたペンネームを大事に使い続けて、42才でついに週刊誌デビューを果たすのである。無数の紙芝居作家、貸本漫画家が死屍累々となる中で、ほとんど奇跡のサクセスストーリーがここからはじまるのである。「冴えてる一言」~水木しげるマンガの深淵をのぞくと「生きること」がラクになる~定価:1,980円(税込み)光文社 久坂部 羊さんの新刊39
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