KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2022年10月号
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日本語訳を作っていたのですが、突然、彼が亡くなったんです。私は何とか中島さんの名前を後世へ残したいと思って、その一心で、シングルレコードのB面に、中島潤訳詞の『マイ・ウェイ』を録音することにしたんです」ところが、いざレコーディングが始まってみると、「思いがけない展開になっていって…」と言う。「当時、私はまだ22歳。録音スタジオで、《今〜、黄昏〜、近づく〜人生に…》と私が『マイ・ウェイ』を歌い始めると、周囲から、『22歳の君には〝黄昏〟なんて言葉は、まだまだ似合わないなあ』とさんざん言われてしまって。そこで、私は即興で、『今〜、船出が〜、近づく〜、この時に〜』と代替案の歌詞を考えながら歌ってみせたら、『それがいい。その歌詞に変えよう』と採用されたんですよ。B面の曲だし、それで構わないだろう。当時は、そんな軽い気持ちだったんです」と笑いながら明かしてくれた。こうして1972年、シングル版「愛すれど切なく」のB面に収録された「マイ・ウェイ」が、半世紀以上経っても色褪せることのない不朽の名曲として、多くの日本人歌手によって今も歌い継がれている。布施さんが怒られながら即興で作った歌詞の出だしで…。 「ようやく、この歌を歌うにふさわしい年齢になってきたのかなあと、今、コンサートなどで歌っていて、そう実感しています」と布施さんは笑った。大ヒット曲誕生の裏でそしてデビューから10年が過ぎた1975年。日本を代表する歌手―。その称号、地位を確立するきっかけとなった大ヒット曲が生まれる。シンガー・ソングライターの小椋佳さんが作詞・作曲した「シクラメンのかほり」を歌い空前の大ヒット。その年の日本レコード大賞など音楽賞を総なめにするのだが、布施さんは、このヒット曲が生まれた背景、そのあまりにも意外な裏話を打ち明けた。「最初にこの曲を聴いたとき、こう思ったんです。これは絶対にヒットしないだろうなと。でも、その方が都合がいい。そう、私は密かに喜んでいたんですよ」なぜ、そんなことを考えたのか?「実は、もっと歌の勉強をしたかったんです。しばらく歌手活動を休業し、海外で留学でもしよう。そう思っていた矢先でした」ところが、「シクラメンのかほり」は105万枚を超えるミリオンセラーとなり、布施さんのこの目論見は崩れ去る。「長期休暇どころか、毎日この曲を歌い続け、休みなどとれるはずはなく翌年、夏休みをほんの少しもらっただけで」と苦笑した。この4年後。1979年にはCMソングとなり、街中で流れた「君は薔薇より美しい」が大ヒット。「ミッキー吉野さん(ゴダイ21

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