KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2022年10月号
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谷崎を敬愛し、先生と慕う小谷野は、谷崎の評伝をこう締めくくっている。「谷崎先生は古川丁未子宛の恋文で、自分の仕事は今認められなくとも後世に必ず評価されると書いている。その言や宜し、私もまた同様の心構えで、今後の仕事を続けていきたいと思う」丁未子とは谷崎の二番目の妻である。若くして天才作家と認められた彼でさえ、妻に愚痴をこぼし、現状に満足することはなかったのだ。「兄だから大谷崎と呼ばれていた」のに、知らぬ間に世間からも、また、文壇の仲間たちからも大作家という目でしか見てくれなくなったことに、晩年の谷崎は孤独さを感じていたかもしれない。=終わり。次回は横山光輝。な一面も見せていた谷崎だが、呼び出した先生をうろたえさせるほど、当時から彼にはただならぬ文豪としての貫禄が漂っていたのだろう。谷崎は、死後も、ずっと「大(おお)谷崎」という愛称で、多くの文学ファンたちから敬意を込め、呼ばれてきたが、その呼び名は、「偉大な作家だから」という理由ではなかったらしい。ところが、谷崎と仲が良かった作家の舟橋聖一や、谷崎を礼賛していた三島由紀夫でさえ、「偉大な作家だから」と信じて疑わず、「大谷崎」と呼んでいたという。その真相について、評論家の小谷野敦が著書「谷崎潤一郎伝 堂々たる人生」の中でこう明かしている。「どんなに偉大な作家でも、他と区別する必要がない場合は、一般に『大』をつけたりはしない」とし、谷崎が大谷崎と呼ばれるようになったのは、弟の精二も作家だったからで、兄弟を区別するために兄の潤一郎を大谷崎、弟の精二を小谷崎と呼んだもので、だから本来は『だい谷崎』だったのだが、その起源が忘れられ、偉大な作家だから大谷崎だと思われるようになったのである」と説明している。日本を代表する文学者たちでさえ、愛称がついた理由を忘れ、大谷崎と呼ばれた文豪。それが谷崎だった。こんな伝説が生まれるところが、谷崎らしい所以だが、その素顔は岡本の倚松庵での暮らしを愛し、神戸の街を和服姿で闊歩していた庶民的な一人の夫であり、また父親であった。神戸っ子や関西人なら、小説で知る文豪の顔と同時にそんな親しみある愛嬌たっぷりの〝関西人〟としての谷崎の日常の顔も想像することができる。text. 戸津井 康之131

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