の絢爛豪華な生活文化を、そして、それが崩壊していくさまが、「細雪」の中で綴られる。谷崎にとっての大きな転機ともなった、この岡本の家は「倚いしょうあん松庵」と呼ばれる。別名の愛称は「細雪の家」。「倚松庵」の意味は、「松によりかかる住まい」。つまり「松」とは松子のことだ。谷崎亡き後、「倚松庵」は都市開発の計画で、取り壊される危機もあったが保存されることが決まり、1990年、同じ東灘区内に移築され、現在は一般公開されている。また、芦屋市伊勢町には「芦屋市谷崎潤一郎記念館」が建設され、谷崎の直筆の原稿や書簡など資料が展示され、一般公開されている。今も谷崎の息遣いを感じることのできる空間が神戸界隈には多く遺されている。=続く (戸津井康之)芦屋へ逃げて来て、その翌年の春今の岡本へ家を持ったのは、つい此の間のような気がするのだが、もう足かけ六年になる」エッセイ集「陰いんえいらいさん翳礼賛・文章読本」(新潮文庫)の中の、「岡本にて」の項で、谷崎はこう綴っている。〝引っ越し好き〟で知られた谷崎は、神戸へ新居を構えるまで転居を繰り返していた。だが、谷崎は、神戸の岡本に建てた家に、1936年から43年までの7年間住み続けた。神戸での生活がいかに心地よかったかを、谷崎はこう明かしている。「元来私は以前から移転好きで、生まれたのは日本橋のまん中だが、自分が一家を構えるようになってから、本所の小梅を振出しに、本郷、小石川、相州鵠沼、小田原、横浜と云う風に転々として住居を変え、一つ土地にまる二年と居たことはないのに、それが岡本ではすっかり癖が止んでしまった」79年の生涯で計約40回も引っ越した谷崎が、こう語るのだから…。当時、谷崎は3人目の妻となる松子と結婚。岡本に建てた家で執筆し、名作を輩出する。その一つが「細雪」だった。《「別に取り立てて風情もない詰まらないこの庭だけれども、此ここ処にたたずんで松の樹の多い空気の匂においを嗅ぎ、六甲方面の山々を望み、澄んだ空を仰ぐだけでも、阪神間ほど住み心地のよい和やかな土地はないように感じる」》小説「細雪」の中で、四姉妹の次女、幸子が東京へ出かけた際、神戸を想った一節だ。幸子のモデルは谷崎の妻、松子である。谷崎は松子との生活を岡本のこの家で始め、松子ら、近代化を遂げた〝阪神間モダニズム〟の時代を生きた四姉妹をモデルに、大正から昭和初期にかけての阪神地域の上流家庭125
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