KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2022年9月号
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という医者の助言で泉源を改修、地下水の滲出を防いだところまた適温になったとか。この温度変化、神秘的よね?それもそのはず、有馬の湯は熊野権現のご神力により熊野灘から流れる潮が芦屋でもぐり込み、有馬に沸いて出たものですから。江戸時代の常識ではね。ゆえに、芦屋にあった*報恩寺薬師堂は「湯元薬師」とよばれていたそうです。そんなありがたい温泉だから、大名から犯罪者まであらゆる人々が有馬を訪ねます。入浴は室町の頃と変わらず外湯で浴場は1か所、浴槽を2つに仕切って一ノ湯・二ノ湯とし、それぞれ入浴客を宿ごとに分けていました。ということは混浴?とスケベなこと考えてたあなた、正解!ですが残念、男はふんどし、女は湯着を着用していたとか。お宿も来訪者の増加にともない、もともと宿坊というタテマエでその起源が行基とも仁西ともいわれている十二坊がいつしか二十坊に増え、さらにその傘下に民泊的な「小宿」が有馬全体で70ほどできたそうです。で、二十坊それぞれに1名ずつ、年増のマネージャー的な大湯女、その下に若い小湯女がおりまして、お客のお世話をしておりました。特に小湯女は宿から浴場へ案内し、浴場では下足番や衣類の受け渡しなど、宴席ではお酌や「有馬節」の披露とか大忙し。容姿端麗な小湯女はまさにアイドルで、13~23歳くらいと現代のそれと同世代。中ノ坊は「つね」、御所坊は「まき」など宿ごとに芸名?も決まっていました。しかも会いに行ける訳ですから「推しメン」にイレ込む客も多かったようで、AKB商法のさきがけといえるでしょうか。さらに、例えば御所坊のまきちゃんは「釣こす簾ま・・きて雪にみとるゝ御・・所すだれ」と、それぞれの句まであったんですが、これって「えくぼは恋の落とし穴、百田夏菜子です!」といったももクロメンバーのキャッチフレーズみたいなものですよね。時に大火事や水害、飢饉に苦しみつつも、こんな感じで江戸時代の有馬は万人が楽しめる温泉地として大いに賑わったのですが、明治には一転!…おっと、ここでお時間です。*いわゆる「芦屋廃寺」。「法恩寺」という表記の文書も。117117

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