KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2022年9月号
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「会いに行けるアイドル」のルーツは有馬に?江戸時代語り調子でザッと読み流す、湯の街有馬のヒストリー。有馬温泉史略有馬温泉史略第九席江戸時代の有馬は大変繁栄したそうです。前回申し上げた通り1596年の慶長の大地震で被災して、秀吉がその復興過程で岩風呂や蒸し風呂まである壮麗な御殿を建てたけどここに来る前に死んじゃった訳ですが、江戸時代になるとこのゴージャスなレガシー目当てにセレブたちがわんさとやって来て、湯の街有馬は豪華絢爛大賑わい!と、普通ならそうなると思いますよね?ところが…この御殿、活用せずに解体されちゃうの。でも建物は勿体ないので三田のお寺へと移築され、いまもその一部が残っていて、それが心月院の山門です。ちなみにこのお寺には、白洲次郎・正子夫妻のお墓があります。そして御殿跡地には徳川ゆかりの浄土宗の極楽寺と念仏寺を建て秀吉色を一掃、江戸幕府恐るべし!でもね、秀吉の命による泉源や河川の改修が江戸時代の発展の礎になった訳で、太閤さまのご威光を完全に覆い隠すことはムリだったみたいですね。ところで、熱心な読者のみなさまは、前回申し上げた「慶長の大地震で温泉が熱湯になっちゃった問題」はどうなった?とお思いでしょう。実は江戸初期も激熱のままだったようで、1621年に入湯した林羅山の記録によれば、温泉に卵を放り込むとゆでたまごになったとか。お風呂はそのままじゃ人間のしゃぶしゃぶになっちゃうので、水を注いでいたようですがそれでも熱く、のぼせないよう冷水をひたした手ぬぐいを頭のてっぺんに載せて入浴する「枕水」や、湯を汲んだ桶を高くかかげて肩や背中に湯をかける「打湯」といった工夫をしたそうです。でもいつの間にやら冷めてきて、1700年を過ぎた頃には適温に。でもそれから100年も経つと逆にぬるくなりすぎて、柘植龍州116

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