KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2022年8月号
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震災後、ダイエーやローソンは可能な限り営業を行ったの主要な企業のトップとして経営手腕を発揮している。平成7年(1995)1月17日、大きな揺れが神戸を襲った。その第一報を東京で耳にした㓛はすぐさま自ら指揮を執り、トラック、ヘリコプター、船を総動員して被災地へ物資を運ぶ。ダイエーやローソンは可能な限り営業し、休業を余儀なくされた店でも照明は皎々と灯してがれきの街を励まし、防犯にも貢献した。当時のダイエーは被災店舗も多かったが、それでも自らの陣頭指揮のもとに大量の物資を送り届けたのは神戸に対する思いだけでなく、戦争体験の影響もあっただろう。そして、流通業界を拓き牽引してきた自らの責務という意識も彼を突き動かしたに違いない。動きの遅い政府を尻目にしたその迅速かつ的確な行動は賞賛され、神戸の人々はダイエーに、㓛に感謝感激した。そして、㓛の肝いりで昭和63年(1988)、神戸で開学した初の流通専門大学、流通科学大学は、晩年の㓛が情熱を注ぐ場となった。平成元年(1989)の『大学案内』の中で、初代学長の森川晃卿氏との対談で次のように語っている。「かえりみれば、かつての戦争は資源の取り合いが大きな要因となっていました。第一次世界大戦は鉄と石炭、第二次世界大戦は石油。私たちは、悲惨な戦争を二度と起こさない仕組みを、二十一世紀に向かって考えなければなりません。流通を通して、人、モノ、情報を交換し、互いに理解しあえば、戦争なんて手段はとれなくなります。流通科学大学は、開かれた大学として、また科学としての流通を、解明していこうと考えた結論です。こうした私たちの考えや経験を、次の世代に申し送らねばなりません。いわば引き継ぎですよ」ダイエーの社長を退き、会長就任会見の席で「40年間、あまり楽しいことはなかった」と語った。流通革命に挑み続けた巨星の偽らざる言葉であった。学生を前に教壇に立つ㓛は、経営者の厳しさの中にも、学生たちに未来の日本を託すように愛情平成7年、阪神・淡路大震災後すぐに各店を周り陣頭指揮をとる。(写真提供 新潮社)72

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