KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2022年8月号
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㓛に大きな影響を与えた神戸三中・近藤英也校長(協力 兵庫県立長田高等学校)られる松尾稲荷や、数年前までその脇に広がっていた稲荷市場のすぐそばだ。その建物は現在、中内㓛記念館(流通科学大学内)に移築されている。母はしつけが厳しく、教育にも力を入れていたそうで、㓛の勉強家・読書家の素地はその賜物かもしれない。店番や配達など家業の手伝いもよくしたようで、薬品の知識を得たことは人生の大きな糧となる。昭和9年(1934)に神戸三中(現在の長田高校)へ入学、近藤英也校長に『願』を立てることの大切さを学ぶ。『願』とは一代の間にいかなる人物となり何を目的として生きていくかを自ら深く考えた結果で、その『願』なくして『行』、すなわち修行はないという講話に感銘を受け、その教えを終生忘れなかった。神戸商高(後の神戸商科大学、現在の兵庫県立大学)へ進学するのは昭和14年(1939)のこと。ここでは実践的な英語を学びつつ図書館で本をよく読んだ〝言葉の人〟とも評される㓛の原点を垣間見るようで、ダイエー時代の簡潔ながら心に迫るキャッチコピーの基礎になっていったのかもしれない。昭和16年(1941)12月、真珠湾攻撃とほぼ同時期に神戸商高を繰上卒業し、その後日本綿花(後のニチメン、現在の双日)に就職。厳しくビジネスのイロハを叩き込まれ、商社らしく英字新聞を通じて世界情勢を知ったという。ラングーン(ミャンマー旧都市、現在のヤンゴン)に派遣される予定だったが、入社後しばらくは貿易業務を担当。大本営発表に庶民が歓喜する大正15年、父が神戸で「サカエ薬局」を開業。昭和60年頃の写真69

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