ろう。ついでに、シャシンとは映画のこと。英語でモーションピクチャー、訳すと動く写真、活動写真だ。それはフランスのリュミエール兄弟が1895年にシネマトグラフなる装置を発明したところから始まる。パリのサロンの壁に白シーツを張って上映して、やがて、ロンドンやニューヨークで広まり、エジソンの特許料徴収に耐えられずにハリウッドに逃げた業者たちが新しい撮影所を作り、京都にも上陸したわけだ。現場では活動屋は何でも縮めて言った。天空が雲一つなく太陽光がピーンと射し、辺りがカーンと晴れていると「今日はピーカンや、雨降らしは無理やな」と昔の京都太秦では言い合ったとか。スタジオのセットではキャメラマンが「その鉢植え、わらって(画面から外して)」「テーブル台を八百屋に(少し奥を上げて傾斜をつける)」と隠語を飛ばし、それを皆が真似たのだ。下町をうろつく不良少年らを描いた『ガキ帝国』(81年)は世間的には好評だったが、ボク自身は映画をやめたくなるくらい落ち込んでいた。毎日のように、ミナミに出ては小さな屋台寿司で“絶望”を肴にして酒を呑み、若い出演者らを電話で呼びつけては「オマエ、役者なんか似合わんぞ」と愚痴を吐き、酔いに任せて人の映画をなじった。「何が黒澤や!『影武者』がナンボのもんや!」と。そんな頃、ミナミ千日前で観たのが「レイジング・ブル」(81年)だ。ボクサーが堕ちる所まで堕ちていく話だと聞いてはいた。ボクシングに興味はなかったが、主演がデ・ニーロだし、義理でも観なければならないなと小屋に逃げ込んだ。どうやら実話の伝記のようで、その鮮烈なモノクロ画像はささくれたボクの心を救ってくれそうで人間臭さが充満していた。主人公のジェイク・ラモッタはニューヨークの狭いアパートで暮らすイタリア系のボクサー。試合に負けた日は女房にステーキを焼かせては文句を言って当たり散らしていた。彼は街のプールで十代の若い女に一目惚れして所帯を持つ。思い込んだら引っ込みがつかないジェイクの生きっぷりに、いつの間にかボクは我を忘れた。彼の世話役の弟役のジョー・ペシという男優は見たこともなかったが、ボクはその三番目の弟になった気分で、彼らの人生の駆け引きに引きずり込まれていった。彼らは落ちぶれていく。デ・ニーロは顔形が変わるまで太ってラモッタになりきっていた。81年初夏、東京でも『ガキ帝国』の公開が決まると急に創作意欲もわき始めた。ラモッタが背中を押してくれたようだった。くよくよしないで生きろと。当時のノートを開くと、映画は心の放浪を追うものだとメモにある。今月の映画『ガキ帝国」(1981年)『レイジング・ブル』(1981年)43
元のページ ../index.html#43