KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2022年8月号
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した創業者、現会長である。こんな裏切りぐらいでは決してへこたれる喜八郎ではない。後発メーカーとして挑み、切り開いてきた彼の靴作りの戦いは、大企業となった現在も途切れることなく、まだ続いているのだ。昨年の箱根駅伝では約95パーセントの選手がナイキのシューズを履いていた。新技術の「厚底シューズ」を開発したナイキの独壇場が近年続いている。だが、今年の箱根駅伝ではアシックスのシューズを履いて快走する選手たちの姿があった。王者・ナイキの独走に、チャレンジャーとして果敢に立ち向かう〝オニツカの魂〟を込めたシューズを履いて…。アシックス技術陣の執念が、〝ナイキ一極集中〟の牙城に風穴を開けたのだ。「机一つ」からのハングリー精神は未だ健在。喜八郎譲りの靴作りへの飽くなき〝世界と戦う魂〟は、今も受け継がれている。=終わり。次は谷崎潤一郎。(戸津井康之)く説得した。工場へ戻った喜八郎は、直ちに技術者たちに興奮気味にこう命じていた。「世界で一番軽いマラソンシューズを作ってくれ!」喜八郎の説得の末、アベベは裸足ではなくシューズを履いて、この大会で優勝する。オニツカではないシューズを履いて。そして1964年の東京五輪でもアベベはシューズを履いて見事、金メダルを獲得するが、そのシューズにも、勇ましいオニツカの意匠はなかった…。東京五輪でアベベは、ライバルであるドイツのメーカー、プーマのシューズを履いていたのだ。当時の日本のアマチュアスポーツの規定では、企業が選手と契約し、お金を払うことは許されていなかった。東京五輪で、アベベはプーマのサポートを受けていた。「アベベで金メダルを!」という喜八郎の悲願は叶わなかったが、東京五輪でオニツカのシューズを履いた選手が獲得したメダルの数は金21個、銀16個、銅10個。計47個にのぼった。不変のハングリー精神東京五輪の前年…。一人の米国人青年が喜八郎を訪ねてきた。「米国には競技用のいいキャンバスシューズがないので、オニツカのシューズを米国で売らせてほしい」こう懇願した青年の名はフィリップ・ナイト。喜八郎は彼にシューズを提供し、米国でオニツカの販売権を任せた。喜八郎の教えた経営手法でナイトは順調に売り上げを伸ばしていったが、突然、彼はオニツカの靴作りの技術、販売方法を習得後に独立。さらに商標権をめぐってオニツカを訴えてきたのだ。当時一億数千万円という和解金まで支払わされた喜八郎は米国のビジネス界の冷酷さを嘆き、「高い授業料だった」と回想している。このナイトこそが世界最大のスポーツ用品メーカー「ナイキ」を興131

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