KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2022年8月号
125/136

その次の来訪は1591年、愛児鶴松夭折の直後。その2年後、秀頼誕生の直後にもまた秀吉は有馬を訪ねています。悲喜こもごも、節目節目の有馬通いですね。1594年、57歳の秀吉は失禁や肩肘の痛みで湯治することになったものの、不調で出発を4日ほど延期。でもね、大好きなお妾さんの松ノ丸ちゃんが有馬に滞在していたので、頑張って追いかけちゃったみたい。この時は御所坊、池坊、兵衛が合同で湯屋の近くに御座所を設け迎えましたが、ここから人の背中を借りてよれよれと湯屋まで通ったそうで、それが気に入らなかったのか、松ノ丸ちゃんにカッコイイとこ見せたかったのか、急に「火の用心が悪い」とイチャモンつけて御殿の設置を命じます。これで有馬は大混乱!たった1つの泉源を召し上げたばかりか、わずかな補償で65軒も立ち退かせ、御所坊、下大坊、上大坊、角坊、中坊などの宿もその対象に。しかも2か月後に完成しているので即刻退去。御殿に樋で温泉を引いたので、下々の者は御殿から流れてくる湯にしか入れなくなっちゃった。御殿完成を祝う1594年の秀吉入湯の際は、ねね、石田三成、浅野長政ら170名で華々しく。でもこんなに迷惑をかけて建てた御殿でのステイはこれっきりで、翌々年の慶長伏見地震で御殿は大破、温泉は熱湯になり入浴不可に。秀吉は有馬復興を命じたのはよかったけれど、1598年に温泉寺奥ノ院から新湯が涌いたと聞くと先の65軒に土地を返還し、奥ノ院を立ち退かせてここに湯殿を造営。それが現在の「太閤の湯殿館」の遺跡です。秀吉は完成直後の湯殿を訪ねる予定も風雨のため中止。結局は没して夢叶わず、程なく新湯も枯れたと伝わります。晩年の秀吉にこんだけムチャクチャ振り回された有馬の人たちですが、現在に至るまで秀吉を恩人と言ってはばかりません。有馬の人は度量が大きいですね。それとも、天下人が愛したことを「ブランド」として利用してきたからなのでしょうか。だとするとある意味、有馬の人たちはしたたか。策略家だった秀吉もあの世で「なかなかやるではないか!」と微笑んでいることでしょう。*秀吉の正室の呼称については「ねね」「おね」「北きたのまんどころ政所」「高台院」などいろいろあるが、本稿では「ねね」で統一。秀吉像125125

元のページ  ../index.html#125

このブックを見る