かしている。「やはり『山椒は小粒でピリリと辛い』というところに尽きるでしょう。大手メーカーの真似をせず、ひと工夫、ふた工夫して独自の味を出していくしか、零細企業や中小企業の生き残る道はないと言い切っていいと思っています」スポーツシューズの開発で、世界に後れをとる日本の中で、さらに後発メーカーだったオニツカが、どう世界進出していくかを喜八郎は創業以来、毎日、必死で考え抜いた。「オニツカが国際化するためには…。まず、オリンピックとどう関わっていくかだ…」喜八郎はその突破口を見つけ、こう決意するが、欧米中心の五輪運営の前に、またしても彼の前に大きな壁が立ちはだかるのだった…。 =続く。 (戸津井康之)を提供している。「レスリング日本代表の八田一朗監督の熱意にほだされて開発した」というこのレスリングシューズを履き、フェザー級の笠原正三選手が金メダルを獲得している。「これがオニツカタイガーにとって初の金メダルになったのです…」喜八郎の世界進出の伝説は、こうして始まった。自伝「念じ、祈り、貫く」の中で、彼が悪戦苦闘し、試行錯誤を繰り返しながら、まだ誰も作ったことのない〝未踏の領域〞のシューズ作りに挑み、日本のスポーツ界を支えるために奮闘した経緯が明かされている。日本選手全員が履くトレーニングシューズはともかく、特殊なレスリングシューズは、「採算のとれるものではなかった」と吐露しているが、喜八郎にとって、そんなことはどうでもよかったのだ。日本レスリング界の礎を築いた八田の悲願達成のために協力できるなら…と。喜八郎が目指したシューズは、このときから〝世界照準〞だった。鬼塚の快進撃は、こうして幕を開けた。初の金メダル獲得で、シューズ開発に自信を持った喜八郎は次の1960年のローマ五輪ではレスリングに加え、体操選手用のシューズも開発。男子体操チームが団体総合で金メダルを獲得するなど〝体操ニッポン〞を世界にアピールし、そのシューズを鬼塚が手掛けたことが話題を集めた。目標は五輪喜八郎が、文字通り裸一貫、神戸で興した日本の零細シューズメーカーが、どうやってインターナショナルブランドへと成長を遂げていったのか。なぜ、彼はそれを成し遂げることができたのか。「念じ、祈り、貫く」の中で、喜八郎はそのヒントについてこう明131
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