謀反謀反で湯ゆのやま山〜三木合戦と有馬温泉 戦国・安土桃山時代語り調子でザッと読み流す、湯の街有馬のヒストリー。有馬温泉史略有馬温泉史略第七席有馬温泉と言えば、太閤秀吉!というイメージをお持ちの方も多いのではないでしょうか?いよいよ今回からそのフェーズに入っていく訳ですが、何せ秀吉に関する資料は膨大で、記述や解釈もまちまち。ですから今回の内容が「ちょっと違うなぁ」と思われても、ザザッと読み流しつつ、生温かい心で許してやってくださいませ。さて、前回は室町時代に現在の温泉カルチャーが芽生えてきたというお話でしたが、今回は政治状況の視点から。室町期の有馬は主に赤松氏の分家が治め、自らの姓をこの地の名から「有馬」と称しました。ちなみにこの有馬家、本家は後述のように滅びますが、分家は遠く久留米藩主として君臨、維新後も家系は続き、その十五代当主、有馬頼よりやす寧こそ競馬の下半期のグランプリ、有馬記念の発案者です。ちなみに上半期のグランプリは宝塚記念ですが、宝塚も有馬温泉へ通う拠点として栄えてきた歴史が。つまり、有馬温泉なくして*メジロパーマーなしなんです。話を戻して⋮、その有馬家の二代目、有馬持もちいえ家が足利将軍六代義よしのり教やその嫡子の八代義政の寵臣だったようで、もしかしたらそのような縁か、義教の父の三代義満や、義政の甥の十代義よしたね稙が有馬に入湯しています。16世紀の半ば頃、有馬家が三好長ながよし慶の傘下になり、有馬温泉というか摂津一帯は三好政権の支配下に。が、程なく織田信長が台頭し、その重臣、荒木村重の統治に取って代わられ、有馬家本家は村重によって1575年に滅亡してしまいます。その頃、織田と毛利という巨大勢力の狭間にあった現在の兵庫県一帯は、その覇権を争う戦乱の舞台となるんですが、中でも三木合戦は有馬温泉に大きな影響を与えます。124
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