KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2022年7月号
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今村 欣史書 ・ 六車明峰連載エッセイ/喫茶店の書斎から   無常迅速 時不待人本誌に初めてエッセイを書いたのは、2002年の7月号だった。いつの間にか20年が過ぎている。*        *詩集『明日の旅』(以倉紘平著・編集工房ノア)を読んでいて、意外な人の名前に出会った。「追悼・辻中義雄」と題された追悼詩。この「辻中義雄」に覚えがある。でも人違いだろうと思った。詩の中にこうある。 辻中さんは 人柄のにじみ出た詩をお書き  になっていた以倉氏の詩の仲間として書かれている。だから同姓同名の人違いだろうと。ところが、詩の内容から、わたしの知る辻中さんにあまりにも通じるものがある。 辻中さんが数えの八十歳だったとは知らな   かった詩の末尾に記された年、1986年。わたしの知る辻中さんもその年にお亡くなりになっており、年齢も合う。続けてこうある。 大新聞社の部長さんだったことも 有名会社の重役さんだったこともこれもピッタリだ。しかしおかしい。辻中さんが詩人だったなんて、思いもしなかった。これまであまり明かしたことはないが、実はわたし、若い日に、在家のままだが禅修業をしたことがある。もう50年ほども昔の話だ。うちの菩提寺に在家の禅会があり、そこで毎週日曜日に座禅を組んだ。「栽松会」といい、指導者には本山の老師もおられてなかなか厳しい会だった。そこに辻中さんは先輩としておられたのだ。ということで毎週顔を合わせていた。月に一度は京都の本山、妙心寺塔頭寺院「東海庵」で泊りがけの接心にも参加していた。修業仲間だったのだ。恥ずかしながらわたしは10年ほどで「棒を折る」ことになるのだが、その間に辻中さんから詩の話を聞いた覚えがない。なので、以倉氏の詩の辻中さんが、禅の辻中さんと同一人なのか、もう一つ確信が持てなかった。わたしは以倉氏に電話で確かめてみた。いきさつを話し、「私の知る辻中さんは、当時たしか“象印魔法瓶”の部長さんだったと思うのですが」と。すると以倉氏も「そういえば思い出しました。たしかにそうでした」と。50年も昔の情景がありありと思い出された。禅堂で、背筋をピンと伸ばし、顎を引き締め、ビシッと座ったその座相までが目に浮ぶ。以倉氏の詩は、こう続く、106

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