今村 欣史書 ・ 六車明峰連載エッセイ/喫茶店の書斎から 田辺聖子さんの異人館好きな作家の一人に西宮在住の小川洋子さんがある。中でも『博士の愛した数式』(第55回読売文学賞、第1回本屋大賞など受賞)は最も好きな小説だ。これはわたしが数学が好きということもある。といっても、わたしの数学は中学生程度のごく初歩的なものではあるが。その小川さんの『小川洋子対話集』(2007年・幻冬舎刊)を読んでいて、アッと思った。対話のお相手、田辺聖子さんの話。《おっちゃんの家のある神戸の荒田町はゴチャゴチャした下町で、子どもも多かったから、私、仕事場を別に持とうと思って探したの。そうしたら、知ってる人が、「山坂を登り降りするのはかなわんというので売りたがってる家がある。だいぶ傷んでるし値段も安くていいという話だから、どうですか」と勧めてくれて、見に行ったの。おっちゃんは、最初「あんな山坂上がり降りする所はかなわん」と怒っていたんですよ。でも、家からの見晴らしがよかったので、大工さんも入ってきれいになったら、すてきな家になって。子どもたちが喜んじゃって。》これに小川さんが訊いている。「どうして手放されたんですか。」その答え。「空き巣が入ったの。昼間誰もいなかったり、夜、灯がついていなかったりすることが多くてね。それでおっちゃんが嫌がりだして。」やっぱりそうだったんだ、と思った。拙著『触媒のうた』(神戸新聞総合出版センター刊)にこの話を書いたのだが、少し疑問が残っている箇所があった。「田辺聖子さん」の章である。宮崎修二朗翁の話として、「(聖子さんに)異人館をお世話したのは僕なんです」というところ。この章を書くために取材で訪れた神戸文学館で調べていて出合ったのが、産経新聞、石野伸子記者の次の記事。田辺さんの談話である。「私は結婚のはじめ、諏訪山の異人館に住んでいた。夫は異人館で私を釣ったといってもよい。大家族の中へいっぺんに抛りこんだらビックリしよるやろ、だんだんにならして、という意図があったのかもしれない。」リアリティーのある文章である。だけどわたしはあれ?と思った。そんな馬鹿な、と。『触媒のうた』にも書いたが、これは確認しなくちゃと宮崎翁に質してみた。すると、「だってぼく、そのころまだカモカのおっちゃんとはそれほど親しくはなってなかったんですよ」で、わたしは次のように書いた。90
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