KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2022年6月号
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―この4月に出身地の藤井寺市でアンバサダーに就任され、手掛けた駅の壁画もお披露目されましたね。100周年を迎える近鉄藤井寺駅の駅長と藤井寺市役所観光課の方から、古墳群が世界遺産に登録され、観光客の玄関口となる駅に壁画を描いてほしいと頼まれたんです。普通は断るんだけど…。―えっ、そうなんですか?だって、大変やん。でも、自分の故郷ですし、要望は聞くけれど好き勝手に描かせてもらえるならやりますと伝え、OKしてもらいました。そうしないと、たとえ描いても良くないものになってしまうから。本当は駅で直接描きたかったけれど、通行量が多いので断念し、アトリエで描いたものを転写したんです。真面目な藤井寺の名所、旧跡から、自分の思い出の場所、子どもの頃遊んだ場所まで楽しく描かせてもらいました。藤井寺球場に近鉄バッファローズの旗ふ思い出の藤井寺球場も〜藤井寺駅100周年壁画絵が表現の手段だったるおっちゃん。秋のお祭りのふとん太鼓。昔なつかしの藤井寺から今の藤井寺まで。ぼくにしか描けない藤井寺絵巻だと思っています。―子どもの頃は、どんな遊びをしていたのですか?古墳や田んぼに遊びに行ったし、ザリガニを捕ったり、毎日外で友達と体をぶつけながら遊んでいました。土曜日は昼、家に帰ると、「吉本新喜劇」「寄席中継」「松竹新喜劇」を続けて見るんやけど、「松竹新喜劇」の藤山寛美さんがみせる笑いと涙の人情ものが好きでした。―本当に小さい頃から絵を描いていたそうですね。物心が付く前から描くのが好きで、幼稚園で初めて絵の具を付けて描かしてもらいました。当時はウルトラマンが始まった頃だったから、怪獣と戦っているような絵を描いてたね。絵を描いては人に見せて、「面白いな」と言ってもらうのが嬉しかった。自分の表現の手段が絵だったんです。教科書の隅にパラパラ漫画を描いたり、壁新聞に先生の似顔絵を描いて友達に笑ってもらったり、そんなんばっかりしてました。―当時から、将来、絵を仕事にしたいと思っていましたか?大人が働かなあかんことは子どもでもやんわりと分かっていたから、嫌なことはしたくない。同じ仕事をするならやりたいことをやりたいし、絵を描くのが好きだから絵を描く人になりたいと思ってました。おかんも反対はしなかった。心配だっただろうけど、偉いね。―絵本に対する想いが芽生えたのは?イラストレーターが華やかな仕事をしていた80年代、僕もその仕事にあこがれながら、グラフィックデザイナーをしていたのだけど、クライアントの意向を表現する広告ではなく、長新太さんや田島征三さんのように、自分の想いを一冊の絵本で表現するのが、なんてカッコいいの25

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