KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2022年6月号
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を数多く輩出する、こんな豊かな土壌をはぐくんできたのが沖縄なのです」2001年に琉球交響楽団は創設された。以来、年に二回の定期公演などで大友さんは指揮をとってきたが、2013年に祖堅さんは死去。その後は祖堅さんの遺志を受け継ぎ、支援してきた。「沖縄でプロの演奏家として生きていくことは大変です。琉球交響楽団のメンバーも、演奏会だけで生活していくことは難しい。みんな他に仕事をしながら音楽活動を続けているのです。でも、音楽に懸ける思いは熱く、演奏技術はとても高いですよ」指揮者への道こう語る大友さん自身、自らの力で音楽家としての道を切り開いてきた一人だ。音楽の魅力に目覚めたのは小学3年のときだった。父が所蔵するクラシックのレコードを聴いていた。ドボルザーク、ベートーベン…。も関係ない―。そんな信念で指揮者を続けてきた。5日に控えた琉球交響楽団の演奏会にも強い思い入れがある。20年以上も前から琉球交響楽団の創設に関わってきた。「もともと私は沖縄には縁もゆかりもなかったのですが…」N響を指揮し、デビューしたコンサートのトランペット奏者、祖堅方正さんが、故郷・沖縄へ戻り、沖縄県立芸術大学の音楽学部の教授に就任。大友さんに、「学生たちのオーケストラを一度、指揮してほしい」と依頼されたことがきっかけだった。先輩を応援するために沖縄を訪れたのだが、祖堅さんが目指す「地元での交響楽団創設」を後押ししたのは大友さんだった。「先延ばしせず、思い切って創設されてはどうですか」と。「那覇は大都会ですが、少し通りをはずれると、三線(さんしん)の音がどこからか聞こえ、みな自然に踊り始めている…。日常生活の中に伝統音楽がしっかりと根付いている。歌や踊りの感性が優れた人材「その旋律に圧倒され、心が震えた」と言う。そして1969年。東京・上野の東京文化会館で、世界的指揮者、ゲオルク・ショルティが指揮するウィーン・フィルの演奏を聴きながら決意していた。「自分は音楽で生きていきたい。作曲もしたい…」。そして、「絶対に指揮者になりたい」と。11歳のときだった。「両親が音楽家という家系でもなく、音楽家を志す年齢としては決して早くはなかった」と振り返るが、桐朋学園の音楽学科などを創設した齋藤秀雄さんのアドバイスを受け、桐朋女子高、桐朋学園大学音楽学部で学びながら、めきめきと頭角を現す。大学2年でN響の研究生となり、大学4年で指揮者としてデビューするという猛スピードで。日本を代表するクラシックの指揮者として、華々しい経歴を築いてきた大友さんだが、その音楽のジャンルのテリトリーは幅広い。20

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