KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2022年6月号
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篠原一帯は戦略的にも重要な地点だったようだ。鎌倉末期、後醍醐天皇を支持する反幕府勢力の武将、赤松円心の軍勢と、幕府側の六波羅探題軍がここで激突。赤松軍は左右が狭くなった現在の六甲台あたりまで敵方をおびき寄せて奇襲し撃退。この地の地形的特徴を把握していた円心の策がピタリとはまり、六波羅探題軍は4千もの兵を失ったという。室町、戦国を経て豊臣秀吉が天下統一を果たすと1594年に太閤検地がおこなわれ、さらに徳川幕府が開かれると大半は尼崎藩領となった。江戸時代は百姓たちがこの地を豊かにした。もともと扇状地だったが、芝草などをすき込んで土の質を改良。さらに干鰯や油かすなどを施して土壌を肥沃にするだけでなく、水路やため池などを整備して生産性を向上させ、米や麦などの穀物のほか、大豆、菜種、綿、野菜など多彩な作物を栽培するようになったという。一方で江戸時代初期から急流を利用した水車産業が発展、天明年間には25両、寛政年間には30両の水車が稼働していたと記録にある。当初は搾油に使用されていたが、その後米搗きにも用いられ、海側に広がる日本一の酒どころ、灘を支えた。明治になっても豊かな農村だったが、開港した神戸の外国人のニーズに合わせて酪農もおこなわれるようになり、5つの牧場で100頭以上の乳牛が飼育され、日産約500リットルの牛乳を搾乳していたそうだ。大正時代になると、日本最大の工業都市へと成長した大阪と、東洋一の港町にして金融の中心でもあった神戸の間に位置し、〝健康地〟としてのポテンシャルもあり、利便性と快適性を兼備した郊外住宅地として注目を浴びるようになる。特に大正9年(1920)に阪神急行電鉄(現在の阪急)が開通し「六甲」駅が開業、さらに土地区画整理組合が結成され昭和7年(1932)に「六甲」駅六甲川豊かな農村と水車産業都賀川モダニズム薫る文教の街120

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