KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2022年6月号
115/124

を、喜八郎はこう振り返る。「義理の父親から借りた電話が一本あるだけで、工場はおろか、機械の一台も持たずに、無一文で始めた」不安でしょうがなかったであろう創業当時の胸の内を、こう吐露もしている。「茶の間の縁側に机が一つだけだった」と。 縁側に机一つのみ…。シューズメーカーと呼ぶには、あまりにも頼りない環境。しかし、これが〝世界のアシックス〞の原点、スタート地点だったのだ。喜八郎は、30歳になっていた。神戸で産声を上げた小さな町工場から、オリジナルのシューズブランド〝オニツカタイガー〞の名を世界へ轟かすための喜八郎の本当の戦いが始まるのだった。=続く。(戸津井康之)知らせが鬼塚家へ届く。「鬼塚」の名を受け継ぐ決意「上官との約束を守るために…」と、喜八郎はそのまま鬼塚家に養子として入り、「これからは〝鬼塚喜八郎〞として生きよう」を決意する。当時、闇市のような商売をしていたという会社に愛想を尽かした彼は、この会社を辞めたものの、「いったい何をして、養父たちを養っていけばいいのか…」と悩む。彼は、まったく靴作りの知識がないまま、シューズメーカーを興すのだが、その経緯、理由も興味深い。終戦直後。神戸・三宮などの市街地には、戦災孤児が集まり、その非行化が社会の問題となっていた。「この子供たちをきちんと育てなければ、日本の再生はない…」喜八郎が憂い、こう考えていたとき。兵庫県の教育委員会につとめていた、かつての戦友からアドバイスを受ける。「子供の再生にはスポーツが必要だ。スポーツで子供たちを支援してはどうか。今の日本の子供たちにはスポーツするときに履く靴がない。スポーツシューズを作ってみないか…」と。喜八郎は、「よし、分かった。自分は靴屋になろう!」と即答していたという。さらに、この瞬間、「生涯をかける仕事が見つかった」とも語っている。こうして、「青少年がスポーツに打ち込める靴を作るため」の喜八郎の苦闘の日々が始まる。伝説の始まり1949年の創業当時の頃115

元のページ  ../index.html#115

このブックを見る