KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2022年6月号
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でもやっぱり、温泉ってお湯だけに魅力があるんじゃなくて、温泉地へ行ってナンボですよねぇ。鎌倉時代の歌人、藤原定家はなんと4度も有馬を訪問。咳や関節痛の持病があったようですが、重病じゃないのに有馬へ通ったのは楽しかったからなのでしょう。そうやって湯治目的はタテマエと化し、鎌倉後期から室町にかけては有馬へ堂々と遊びに行くようになるようで。鎌倉初期は有馬の社寺仏閣めぐりや、近くの鼓が滝の散策程度だったのが、室町中期になると片道10㎞以上ある鎌倉谷、現在の鎌倉峡まで日帰りでハイキングするのが定番になっていたとか。ここはいまクライミングの名所ですが、さすがに岩登りはしていなかったとしても、おおよそ湯治に来る病人のやることじゃありません。また、室町の初期になると酒もつきものになり、中期には毎日どこかで酒宴がおこなわれていたとか。しかも飲酒したと記録しているのは僧侶。病の坊さんが酒呑んで風呂入っていいのかよ!ほかにも囲碁、読書、歌会、サッカーというか蹴鞠など娯楽いろいろ、サロン的な雰囲気もあり、そりゃ楽しいでしょう。そう言えば瀬戸内寂聴さんは有馬の高級旅館に逗留して原稿を書いたそうですが、こういうのも鎌倉時代からあった訳で。日本人って中世から進化していないのでしょうか。さて、しばしタイムスリップして、室町時代の有馬の湯屋へ参りましょう。浴場は一ノ湯・二ノ湯の2か所あり、身分の貴賤に関わらず温泉街の南側の宿からは一ノ湯、北側の宿からは二ノ湯へと客が出向いてご入浴。脱衣所で服を脱ぎ、階段降りて浴室へ。湯舟は横5~6尺・縦7~8尺といいますから、2m四方といったところ。当時は立って湯に浸かったようで、この狭さでもギリ10人ほど入れます。浴槽の底は砂礫で、その隙間から新鮮な温泉が滾々と。足もとから涌く源泉かけ流しでほっこりしましょう。しかもかけ湯用にと槽の一部を区切り、さらに山から清水を引き、バスルームは清潔で快適。以上、相国寺の高僧、瑞ずいけいしゅうほう渓周鳳の記録をもとにした1452年の様子でございました。このように中世、特に室町時代は、いまに通じる温泉カルチャーが確立した時期と言えそうです。遊んで呑んで風呂入って「あ~極楽♪」とエンジョイする者と、リアルに極楽浄土へ逝く者とが交差し、もしかしたら現代よりもさまざまな人間模様を垣間見ることができたのかもしれません。107

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