KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2022年5月号
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で有馬に被害が出たことは間違いなさそうですが、その31年後の1128年には白河法皇、1178年には後白河法皇と建春門院、1186年には藤原兼忠とやんごとなき方々が入湯したという記録があります。つまり、有馬温泉は仁西以前に復活していたようなんです。そもそも仁西というのは謎な人で、ググると有馬温泉関連以外の情報はほぼ出てきません。有馬ローカルの伝説上の偉人で、復興譚も作り話なのか?でも、有馬に新年を告げる入いりぞめしき初式では仁西上人と崇められ、初湯で沐浴していただくという破格の扱いを受ける訳で、バーチャル上人じゃ格好がつきません。仁西はもともと高こうげんじ原寺の僧と伝えられますが、それは吉野郡川上村高たかはら原の福源寺のことのようで、ここの開祖は修験道のパイオニア、役えんのおずぬ小角ですから、仁西も修験者や山伏だったのかも。また、木地師の祖とされる惟これたか喬親王が二度にわたり隠いんせい棲した高原は、木地師が定住した木工の里であるとともに、聖地、大おおみねさん峰山の登山口に位置し宿場の機能もあったようで、里人にとって宿泊サービスもお手のものだったんでしょう。で、有馬山椒の名店、川上商店の祖は川上村出身、有馬人形筆を発明した伊助も川上ゆかりの人物だったとか。有馬の産業は高原や川上と結びつきが深いのです。想像するに…高原の人たちが木地師として良材を求め有馬の山へ来て定着、やがて宿や土産物屋を営み水害から再起しつつあった有馬の地域振興にも手腕を発揮した。で、その集団のリーダーこそ里の住持だった仁西で、有馬温泉の恩人と相成った。高原には惟喬親王の時代より自治の中心をなした十二人衆という組織があり、有馬十二坊はこれに由来するという説も一考の余地ありじゃないかと。仁西や鎌倉初期の復興については諸説ありますが、福源寺の薬師如来像ならその真実をご存じのはず。1085年に開眼し、仁西の時代に高原から有馬へ遷り、有馬で大火事があった1695年に高原へ戻ってきたとか。逸ノ城よりも大きそうなこれだけの仏像が有馬と吉野の間を往き来したのですから、多くの人たちが関わったのでしょうね。ぜひ祈祷料2千円を納めて、ふくよかで柔和な薬師様に歴史の真相を訊ねてみてください。仁西上人105

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