憧れの作品を自らの手で修復これまで宮島さんが監修し、4Kデジタルリマスター版で蘇らせた映画本数は計27本。その中には、師匠の森田さんが撮影監督を務めた特撮時代劇「大魔神」3部作シリーズもある。監修の際の極意について聞くと、宮島さんは、こう即答した。「色も明るさも、頭ではなく、すべて目が覚えている。目が反応するのです」と。この言葉には説得力がある。「大魔神」の2、3作目で撮られた〝映像〟を、宮島さんは、撮影現場でカメラを回す森田撮影監督の真横で直接見ていたのだ。宮島さんは1966年、大映の京都撮影所技術撮影課に配属された。その初出勤日。「朝、撮影所に着くと、いきなり撮影所の所長から、『あいさつはいいから、早く試写室へ行って』と言われました。急いで試写室へ入ると、そのスク力したい」と立ち上がったハリウッド界の巨匠がいる。世界で大ヒットした「タクシードライバー」や「レイジング・ブル」などで知られるマーティン・スコセッシ監督だ。「雨月物語」や「山椒大夫」などの他、2年前には「無法松の一生」のデジタルリマスター化を資金面などで支援し、話題を集めた。そのスコセッシ監督から「監修はあなたにしかできない」と指名されたのが宮島さんだ。「もう少し赤色を抜いて…」「もっと暗く…」などデジタルリマスターの作業において、画像の色味や明るさなど最終の映像の調整を判断するのが宮島さんの仕事。その作品を撮った映画監督や撮影監督の創作意図を熟知した者にしかできない緻密な作業である。その役割は、当時の製作者たち以上に、大きな責任を負っているといえるかもしれない。なぜなら、100年以上、この映像が残るのだから…。リーンに映っていた映画は『大魔神』だったのです。感動しました…」今では当たり前のように行われているブルーバック合成の特撮技法。森田さんが日本で初めてこの技法を試みたのが「大魔神」だ。「シリーズ2、3作目の『大魔神』の撮影現場では、私は森田撮影監督の〝フォース(4 )〟を務めました。フォースとは4番手の助手という意味。つまり、その現場で一番下の助手だったんですよ」と振り返る。第二次世界大戦下の1942年、宮島さんは広島県で生まれた。「映画の道へ進もう」と、決意したのは早く、小学6年のとき。きっかけは小学校で巡回上映されていた映画「山椒大夫」だ。「映画の迫力に圧倒され、その場では涙が出なかったのに、家に帰って泣きました。涙が止まらなくて…」中学生になると、さっそく行動を起こす。「先生に頼んで写th22
元のページ ../index.html#22