トになっていますよね。このパターンはほかにも枚挙にいとまがないのでございます。これは旅情ってやつでしょうかね。都から有馬温泉へ向かう途中の夕刻、旅の疲れを感じる頃に通るのが伊丹らへんの吹きっさらしの淋しい野路で、教養ある都人は万葉集の一首を思い出し、そこに自身の心情を重ね合わせ歌を詠んだ。要するに「しなが鳥…」の古歌をオマージュし続けてきたのでしょうね。まあ落語に例えれば、笑話本『軽かるくちはつわらい口初笑』の一節が上方噺「時うどん」になり、それが関東で「時そば」になり、瀧川鯉りしょう昇師匠で「蕎麦処ベートーベン」になったようなもんじゃないでしょうか。でも、そもそも伊丹から有馬温泉の山は見えない。じゃ、有馬山って有馬温泉じゃないの?って話ですが、有馬温泉のある六甲連峰の東端をまるっとざくっと「有馬山」ということにしていたのでしょう、昔の人は大らかですからね。じゃ温泉はどこ行った?大丈夫、有馬の湯を詠んだ歌、ちゃんとございます。〇わたつみははるけきものをいかにして 有馬の山に塩湯いつらむ〇思ふこと有馬の里に出づる湯に 絶えず涙をわかす頃かな〇珍しき御幸を三輪の神ならば しるしありまのいてゆなるへしほかにもいろいろありますが、以上順番に源兼昌、藤原為忠、源資すけかた賢の歌でございます。この3首から読み取るに、その頃、つまり平安時代の有馬温泉は、現在と同様の塩分濃度が濃い泉質で、「里」とよべるレベル程度には建物や施設が揃っていて、天皇の行幸もあった、ということになりましょうか。実は、この世をわが世と思っちゃったくらい権勢を誇った藤原道長が1024年に、その息子の頼道も1042年に有馬へ入湯したという記録がございます。また、和泉式部も姫路書写山からの帰路に有馬で温泉に入ろうとしたけど女の子の日で断念したという逸話も残っています。セレブなインフルエンサーのブログ的な『枕草子』にも「湯は七久里(※)、有馬の湯、玉造の湯」って出ていますし、『宇津保物語』や『栄花物語』にも登場しますし、有馬温泉はやんごとなき女子たちの憧れだったんでしょう。亀岡の湯の花も雄琴も未開発だった当時、有馬は〝都心から一番近い温泉リゾート〟。貴人たちがいとおかしなヴァカンスを楽しんだのもさもありなんで。ところが11世紀の終わりに大雨が降り、賑わう有馬温泉を大洪水が襲います。果たしてどうなってしまうのか──それは次回に!※七久里=榊原温泉(三重)説と別所温泉(長野)説がある。121
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