KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2022年3月号
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国産の対潜飛行艇の開発を防衛庁(現防衛省)に提案し、1967年、「PS-1」の初飛行に成功する。そして、「PS-1」を多用途化した水陸両用の救難飛行艇「US-1」を開発。これが後継機の「US-2」へとつながるのだ。開発当時から現在まで、「US-2」の飛行性能は世界最高峰を誇る。世界の航空エンジニアたちが誰も到達できなかった唯一無二のこの飛行性能は、菊原がいなければ開発できなかったといわれている。空と海を愛し、技術者の駆け出し時代には、世界の飛行機好きの憧れ「シュナイダー・トロフィー・レース」へ思いを馳せた菊原の夢は叶い、現在も空と海を駈けめぐる。菊原が抱き続けた夢は、彼が愛した故郷・播磨から世界へ羽ばたいたのだ。=終わり(次回はカール・ユーハイム)(戸津井康之)ノンフィクション「日本の名機をつくったサムライたち」(前間孝則著)の中に興味深いエピソードが明かされている。YS-11の開発計画が持ちあがる以前から、実は新明和の菊原が、国産中型輸送機の基本設計などの研究を始めていたのだ。この事実を知っていた土井は輸研のリーダーを決める際、「これまで研究を手掛けてきたのだから設計主任は菊原がいい」と主張した。だが、メーカー間のしがらみなどから「菊原案」は幻となり、5人の中で唯一人、メーカー出身者でない木村に決まったのだ。木村、堀越、土井は1927年、東大工学部航空学科卒の同期で、菊原は3人の3年後輩にあたる。YS-11は1962年、初飛行に成功するが、実際、「機体設計の中心にいたのは菊原だった」という証言は少なくない。突出した技術を持つ5人のサムライの中でも菊原はその中心を担い、活躍したのだ。「もし菊原が輸研の主任設計者になっていれば、彼の人生は変わっていたかもしれない…。その名が広く国民に知れ渡っていただろう」と前間氏は綴っている。敗戦から続く航空禁止令により、多くの日本の航空技術者は自信も誇りも失いかけていた。だが、そんなときでも菊原は決してあきらめてはいなかった。「日本の航空機会社はアメリカから製造権を買い、作り方を教えてもらって、飛行機を製造するということを始めた。こういうことは一度だけやればいいことである。長く続けていると研究者や技術者の想像力が埋没もしくは喪失する恐れがある。日本はできるだけ早期に自力で新飛行機を開発するようにならねばいけないと強く感じていた」これは、菊原が1972年、日本機械学会誌に寄稿した論文の中で記した言葉である。空と海を愛し続けた菊原は、川西航空機時代に飛行艇や戦闘機を設計し、航空禁止令が解けた後には国産初の旅客機YS-11を設計。さらに、123

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