KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2022年3月号
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5人のサムライ秘話終戦後、世界を震撼させたゼロ戦で知られる三菱重工も、飛燕を開発した川崎航空機もGHQにより解体され、日本は一切の航空機製造が禁止される。いわゆる「航空禁止令」により、日本の航空産業は冬の時代に入る。菊原静男が入社した川西航空機も同じ運命を辿る。飛行機一筋で生きてきた菊原はこのとき働き盛りの40歳。彼は人生を悲観し、絶望したのだろうか?否、彼は自らをこう奮い立たせていた。「今日から自分を40歳と思わないようにしよう。20歳戻って人生をやり直そう」と。彼は川西航空機の工場に残っていたアルミ材などを使い、鍋や窯など日常用具からオート三輪まで…。なりふり構わず考えつくものすべてを自分の手で製作していった。終戦から12年。チャンスは巡ってくる。航空禁止令が一部解かれ、日本は国産初の旅客機YS-11の開発に挑むことになる。だが、この〝空白〞の12年の間に日本の航空機開発技術は世界から大きく後退していた。「いったい誰が日本で新型旅客機を設計するのか?」1957年、当時の通産省は「財団法人輸送機設計研究協会」(通称「輸研」)を発足。戦時中、戦闘機の設計に携わった技術者たちが急遽、招集される。集まったのは5人。「ゼロ戦」設計者の堀越二郎(新三菱重工)、「飛燕」設計者の土井武夫(川崎航空機)、「航研機」(航空研究所試作長距離機)設計者の木村秀政(日本大学教授)、「隼」設計者の太田稔(富士重工)。そして「紫電改」設計者の菊原静男(神明和工業)。彼らは「5人のサムライ」と呼ばれた。〝真〞のリーダー設計のリーダーは木村に決まった。だが、本来ならリーダーは菊原だった。菊原静男播磨から世界へ…唯一無二を目指した菊原静男の探究心神戸偉人伝外伝 〜知られざる偉業〜㉓後編122

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