KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2022年3月号
117/128

り、現在の温泉寺は旧温泉寺の奥の院だった清涼院がルーツとなっています。でもね、これで「よかったよかった」で終わりません。実はね、行基研究の基礎中の基礎に「行基年譜」や「行基菩薩伝」という文献があるんですが、これらには有馬の「あ」の字も出てきやしません。すでに超メジャー温泉地となっていた有馬のことが業績として記されていないということは…行基は有馬に来たことすらない!のかも。だとすると、なぜ行基伝説が広まったのか?まず「神話よくね?」から「ビバ!仏教」へと民衆の信仰がかわり、健康祈願が有馬開湯伝説の二神から薬師如来へとシフトしていったという背景があることが考えられます。また、行基信仰を伝えたのは中世の修験者たちではないかという説もあります。でもね…「行基年譜」によれば行基が摂津で活動をはじめたのは730年なので、前述の724年というのは眉唾だけど、行基が有馬に来た可能性はまるでゼロ、という訳じゃない。その頃有馬の近くには、秦氏など渡来人が住んでいた。そして、有馬の山の中には、粘土を求める陶工、材木を採る木工、鉱石を探す鍛冶など、技術系を生業としていた渡来人が多く出入りしていたと思われます。行基は一時期、崑こ陽や施せ院いんや大おお和わ田だの船ふなすえ息、つまりいまの伊丹や神戸に居た。で、渡来人と太いパイプを持っていた行基は彼らに招かれて、滞在地にほど近い有馬温泉の湯に浸かった…十分あり得る話ですよね。あるいは、行基は集団で大事業を成し遂げてきたので、行基本人ではなくともその集団の一派や信者たちが有馬で活動した、なんてことも十分想像できますよ。火のないところに煙は立たぬ、伝説には根拠があるものです。行基が再興したかはともかく、サイコーの僧、行基が来訪したと思いたいものですね、歴史にはロマンがつきものですし。え、有馬温泉は火がないのにいつも煙が立っているって……?※行基の出生当時、大鳥郡は「河内国」だったが、753年から「和泉国」となった行基像117

元のページ  ../index.html#117

このブックを見る