た」についての説明はなにもない。わたしの疑問は残ったままだ。翁にお尋ねできれば即座に解決するのだろうが。いや、「それはあなたが調べることです」とおっしゃるかもしれない。少し調べてみたが、見つからない。わたしの貧困な知識量では歯が立たないのだ。高山まで行って調べればわかるかもしれないが、その気力が今のわたしにはない。冬二氏の手紙にこうある。《あの作品は小生が島根県の出雲今市に居りました頃(大正二年十二月から仝五年頃まで)山陰線で度々大阪まで仝地との間を往復しましたが適々途中城崎へも下車しました。それを後年書いたものです。》やはり「山鳥」のことには触れておらず、この後、但馬での思い出で文が閉じられている。《あの雪の積った城崎の温泉の町の燈火の色など只今も憶出と共に目に浮んで来ます。それから但馬の海岸もなつかしく思ひます。鎧 香住 浜坂などと云ふ駅名も忘れません。浜坂の詩がありますから御参考に御目にかけます。先は返事まで申し上げます。匆々不悉》その「浜坂」の詩も宮崎翁は「浜坂にて」の章に採用しておられる。 新月が出ていた 暗い町の辻に 日本海の怒涛がきこえた。 針問屋は重い戸を下してゐた。冬二氏からの手紙を紹介しながらの解説。わたしが今ここに手にしている手紙だ。針の先で書いたような細いペン字の繊細な書体。70年近くも昔の手紙である。 さて「雪の中で山鳥を拾つた」だが、原典を知る人はないでしょうか。お教えください。それともこれは、もしかしたら冬二の創作だったのか。(実寸タテ10.5㎝ × ヨコ21㎝)■今村欣史(いまむら・きんじ)一九四三年兵庫県生まれ。兵庫県現代詩協会会員。「半どんの会」会員。西宮芸術文化協会会員。著書に『触媒のうた』―宮崎修二朗翁の文学史秘話―(神戸新聞総合出版センター)、『コーヒーカップの耳』(編集工房ノア)、『完本 コーヒーカップの耳』(朝日新聞出版)ほか。■六車明峰(むぐるま・めいほう)一九五五年香川県生まれ。名筆研究会・編集人。「半どんの会」会計。こうべ芸文会員。神戸新聞明石文化教室講師。103
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