KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2022年2月号
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てできるようになって。自分自身が一番納得できる論文は篆刻をはじめてから書けたんです。その後篆刻はやめてしまったんですが、彫りたいという気持ちはあって、定年を機に兵庫県立美術館の版画教室に通い出したんです。─出井さんと共作をはじめたきっかけは。僕が定年を迎えるまでは、出井さんは僕の研究室にちょくちょく来て、いつか二人で何かやりたいなって、夢みたいな話をしていたんです。出井さんは俵万智さんみたいに、日常の何気ないことを俳句にしていたんですよ。それで、僕が版画を習って、出井さんの俳句と僕の版画を合わせてみたらどうや?と。俳画というのはあるんですが、俳句と版画というのは人と同じじゃないだろうし。俳句も英語にしたら名人達に下手くそと言われないし(笑)、版画もモダンにしたらいいかなって。─二人とも退官して本格的に活動をはじめたと。2019年の3月に僕が退官して自由の身になって、二人で松山へ旅行に行ったり、京都へ遠足に行ったり、三宮の「ヴォイス」っていう喫茶店でお喋りをし、週に2~3度会っていましたね。ところがその年の12月、出井さんが病気になり、その翌月に入院して。コロナ禍で会えなかったのですが、電話やメールでやりとりして、治療で元気になっていると思っていた矢先、4月6日です。出井さんが電話で「僕はもう、4月中頃に死ぬと思う。良い友だちでいてくれてすごくありがたかった。子どもたちも立派に育ってくれて、十分に生きたから全く悔いがない」って冷静に…。そんな人なんですよ、出井さんは。でも最期に「二人展やりたかったな」って。コロナだから会いに行けなかったし、お葬式も家族だけで済まされましたが、亡くなった後もその言葉でも最期に「二人展やりたかったな」って神戸大学時代からの良き先輩であった出井文男さん。亡くなる前に得津さんに「二人展やりたかったな」と話した。その一言が、二人展を開催するきっかけとなった78

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