が中心となり神戸の官界、学界、財界の有力者ら70人が発起人の「日伯協会」を発足。移民政策を後押ししていく。1928(昭和3)年、日伯協会の働きかけにより「国立移民収容所(現 神戸市立海外移住と文化の交流センター)」が神戸の港を望む高台に完成する。出発する前に1週間程滞在し、移民に向けた準備を行うための施設だ。場所は市章山のふもと。ブラジル移民を題材にした小説『蒼氓』に「この道が丘に突き当って行き詰ったところに黄色い無装飾の大きなビルディングが建っている」とある。“この道”とは鯉川筋のことであり「移民坂」「移民の道」とも呼ばれた。当時の神戸は、蒸気機関車が走り、海には蒸気船。山の手に洋館や洋風ホテル、商店街には英語表記の看板を掲げたレストランやカフェなどが軒を連ね、近代的工場で働く職工や職業婦人らが歩くモダンでハイカラな雰囲気に包まれていた。忙しいスケジュールの合間をぬって、移民たちは神戸の街へと買い物や観光に出掛け、諏訪山公園の金星台から神戸の街を眺めた。日本でのしばしの、もしくは最後となる思い出づくりだった。当時、収容所のどの窓からも海がはっきりと見えていたことだろう。部屋の壁にはコチア(サンパウロ州の都市)へ向かう青年が残した「別離の言」と題された落書きが残っている。「俺は故郷を想う 俺達は成功を夢見ている」。出立の日、一行は収容所から港へと鯉川筋を歩く。1928年(昭和3)年3月、神戸又新日報が「異様な洋服すがたで長蛇の列を作った移民たち 珈琲かほるブラヂルに新天地求め賑やかな鹿島立ち」と報じている。出港の時、大勢が見送るなか万歳三唱と小学生らが歌う「渡伯同胞送別の歌」が響きわたる。 行け行け同胞海越えて 遠く南米ブラジルに 御国の光輝かす 今日の船出ぞ 勇ましく 万歳 万歳 万々歳今の鯉川筋で移民の歴史に思いをはせるのは難しいかも知れないが、知らず知らずのうちに目にしているものがある。赤色をした八角屋根の元町駅前交番は、ブラジルの教会をイメージして2002年に建てられた。その前には、「FROM KOBE TO THE WORLD」と刻まれたモニュメント。4月頃に黄色い花を咲かせるイペの木もある。ブラジルの国木だ。鯉川筋に数カ所植えられ、ブラジルへとつながる道移民たちの出発金星台からの眺め74
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