KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2022年2月号
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1890年代のこと。北アメリカやカナダ、オーストラリアなどでの日本人移民への排斥運動は激化し、新たな移民先が必要だった。一方、ブラジルは1888(明治21)年の奴隷解放宣言により、コーヒー農園での労働者不足に悩んでいた。ヨーロッパ各国からの移民は定着率が悪く、新たな誘致先として日本が候補になる。双方の思惑が一致し1895(明治28)年に「日伯修好通商航海条約」を締結。1897(明治30)年に第1回目の移民1500人が神戸の港から出港するべく準備を進めていたが、直前にブラジルでのコーヒー価格暴落による財政上の理由から受け入れできない旨の連絡を受け断念。乗船予定だった船名から「土佐丸事件」とよばれた。その後、ブラジルへの移民は否定的な考えが主流を占め、最初の移民が実施されるまで、10年あまりを要することになる。1905(明治38)年になって、ブラジル移民の機運が高まり、新興の移民会社・皇国植民会社の社長・水野龍氏はブラジルへと向かう。ブラジルとの交渉は、法律上の問題で契約には至らなかったが、船中で知り合った鈴木貞次郎氏を実地体験のためブラジルのコーヒー農場にひとり残して帰国。鈴木の働きぶりは、日本人への信用へとつながり、移民政策は大きく動き出す。鈴木は、やがて農園の事務や現地移民収容所の書記まで任せられた。1908(明治41)年4月28日。ブラジルへの最初の移民船「笠戸丸」が神戸の港から出港した。移民の数781名。渡航費などのまとまった資金を用意できる人たちが乗り込んだ(後に国が補助金を出すようになる)。出身地は沖縄や鹿児島、熊本、福島、広島など多岐にわたり、農民だけではなく教師や僧侶、車掌、商売人、警官などさまざまな人たちだった。サントス港に入港したのは6月18日。日本移民を見た印象をブラジルの新聞は「日本人の礼儀正しさ清潔感ある身だしなみを称賛する」と報じた。ブラジルではこの日を「日本人移民の日」日本では「海外移住の日」として記念している。日本国内では移民募集にあたり、住居や土地が用意されていると伝えていたが、現地にそのようなものはなかった。奴隷制度の名残そのままで粗末な住居には床さえなく、土間に寝た。仕事も鐘や角笛の合図にしばられた監視付きの労働。中には、奴隷制度時代と同じ感覚の監督者もいたという。不作の年にあたったこと、到着が収穫期を過ぎていたこと、慣れない作業で収穫量もあがらず、悪条件が重なり収入が少なく、農園からの退去者が続出したという。移民たちが夢見た生活とはかけ離れた厳しいスタートとなった。一方、神戸からは多くの移民が出港していくようになる。1926(大正15)年に、現バンドー化学の創始者・榎並充造氏ブラジルへの最初の移民船「笠戸丸」寄付で作られた国立移民収容所移民の苦労73

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