KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2022年2月号
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が、それ以前の家具はいま見てもうちのかどうかわからないものがあるんです。デザインが統一されていないんですよ。そのベースを固めたのが、ヨーロッパで学んだ三代目の時代なのだと思います。耕一 独特の墨ぼかしの技法も訪欧の後、昭和10年頃からです。でも、ヨーロッパにはこういう塗り方をしているところはあまりないんです。オークは使い込むと木目が際立ってくるので、それを再現しようと考えたのでしょう。泰資 ですから角の方は濃く、真ん中が薄く、敢えて濃淡を出したのでしょうね。全体を濃く塗ってから落としていくのですけれど、そこに職人の癖が出て味になるんです。耕一 ところが、三代目は戦死してしまうんですよ。終戦2か月前に沖縄で。店も空襲で燃えてしまいました。─四代目は耕一さんのお父さんになるんですよね。耕一 はい。四代目の永田良一郎は戦後の焼け野原の中から事業をリビルトしました。戦地から職人や店の従業員が復員し、三すが、金額も規模も大きいし、ちょうど日本の造船業が上り坂の時でしたから、それでずいぶんと繁盛したようです。その頃、家具の出来が本場をしのぎ、輸出もしていました。─人材育成にも力を入れたそうですね。耕一 特にデザインができる人間を欲していました。ですから職人を映画館へ行かせて、洋画のシーンに出てくる家具のデザインを勉強させたそうです。また、京都高等工芸専門学校(現在の京都工芸繊維大学の前身)に出向いて優秀な人材を確保しましたが、そのうちの一人が三代目です。─三代目はどんな方でしたか。耕一 永田良介商店のスタイルをきちんと整理したのが三代目、永田善従ですね。昭和5年(1930)にヨーロッパへデザインを学びに行くのですが、シベリア鉄道経由でベルリンに着いたら、神戸のお客さんとばったり会ったそうです。神戸らしい話ですよね。泰資 技術は二代目の頃にある程度確立されていたのです永田良介商店 五代目 永田 耕一さん永田良介商店 六代目 永田 泰資さん32

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